『THE W』新女王オダウエダが語る「優勝批判」「お嬢さま時代」「駆け込み寺」…そして「松本人志」

700組が参加した2021年の女芸人No.1決定戦『THE W』を制したのは、オダウエダの2人でした。小田結希と植田紫帆。ネタをめぐって賛否両論まで巻き起こす独特な世界観は、どうやって生まれたのか――女王となった日から1週間後、彼女たちが所属する神保町よしもと漫才劇場で、両極端なふたりの生い立ちから『THE W』戴冠までの話を聞きました。

出典: FANY マガジン
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オダウエダ3票、Aマッソ2票、天才ピアニスト2票……僅差の決着となった『THE W』は、オンエア直後から賛美両論が渦巻く大会となりました。ネット上で飛び交う批判的なコメントの数々。そんな状況に「ヘコみまくりました」という植田を救ったのは、芸人を目指すきっかけでもあったダウンタウンの松本人志の言葉でした。

めちゃくちゃ叩かれて…どういうことなん?

——優勝おめでとうございます。反響も大きいのではないですか?

植田 私たちはNSC(吉本総合芸能学院)大阪の36期生で、3時のヒロインのゆめっち、8・6秒バズーカ、東京ではEXITの兼近(大樹)とかが同期なんです。そのほかの同期はどちらかというといぶし銀な、“修羅の道”を歩いている芸人が多い(笑)。だから、売れた芸人が少ない谷間の世代といわれる36期から『THE W』の優勝者が出たことは、みんな喜んでくれています。
ただ、大会直後から賛否両論が渦巻いて……その状況を同期は笑っていますね。2014年のコンビ結成から頑張ってきて、全力を尽くして優勝させてもらったのに、翌朝、めちゃくちゃ叩かれているのは「どういうことなん?」って思います(笑)。

出典: FANY マガジン
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小田 私は、もし私たちが優勝することがあるなら、賛否両論わかれるだろうなとはなんとなく思っていました。植田はもともと、批判に弱いタイプ。いつも悩みに悩んで、私が励ましている。ただ今回は、批判も度が過ぎると人間は強くなるんだということを植田から学びました(笑)。私はネットでの賛否両論をなんとも思いません。これまでも、「賛」の意見も「非」の意見も、ネタに取り入れてコントを作ってきたんで。

——優勝で人生が変わった実感はありますか。

植田 変わってないはずはないんですけど、実感としてはあんまりないですね。大会の前は、終わったら浴びるように酒を飲んで、ドロのように眠ることを想定していたんですけど、それすらできていません。

——ちょっと声が枯れているようですが……。

植田 あの日から声がずっと枯れているんですよね。ふだんは何日か寝ると治るんですけど、ありがたいことにお仕事をいただいているので、いくら禁酒してもぜんぜんよくならない。ネタの調整はできていますが、声の調整ができていない、という……。

小田 朝起きてから寝るまで、お笑いの仕事があるという状況が私たちにとって初めてなんですよね。それがまず嬉しいですし、ありがたいです。ついこの間まで、ふたりとも早朝からバイトに行って、夜にライブに出演するような毎日でしたから。

——優勝後、小田さんは賞金1000万円の使い途について、老人ホームを経営しているお母さんの借金にあてたいと話していましたね。

小田 本気です。その借金というのは、ちゃんと銀行から借りている「良い借金」なんですけど(笑)、莫大にあるのでちょっとの返済にしかなりませんね。この劇場にも何かしら寄付したいです。

植田 私も「シモネタGP2021」(ABEMA)で優勝したとき、これまで両親に助けてもらってばかりだったので、賞金の50万円をお母さんにあげようと思っていたんですけど、あっという間に消えてしまって(笑)。今回の賞金こそ、恩返しにあてたいと思います。あ、バイト先の清掃会社の掃除機のバッテリーも壊れ始めているので、20個ぐらい購入して寄付したいと思います!

小田 舞台ではあんなわけわかんないことやってんのに、ふたりとも賞金をお母さんに渡すって(笑)。

植田 そりゃあ、あんた、お父さんとお母さんが生んでくれたから、いまの私たちがあるわけで。

出典: FANY マガジン
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「夜逃げ」と「駆け込み寺」

——おふたりは生い立ちも学歴も、NSCに入る経緯もまるで対照的ですよね。

植田 私はいわゆるお嬢さまとして育ちました。父親はもともと、大手メーカーに勤めていて、最近は外国語スクールをやっています。サラリーマン時代に海外勤務も経験していて、日本語のほかに英語、フランス語、中国語、韓国語がしゃべれるんです。単身赴任が多かった父親に対して、母親はキャラが濃いというか、ちょっとものぐさなところがあって……通販で購入したモノとかが家中にあふれているんですけどね。

——ミッション系のお嬢様学校に通っていたとか。

植田 大阪信愛女学院(大阪市)に小学校から入学して、高校まで通いました。子どものころは、水泳・体操・サッカー・テニス・ミュージカル・ダンス・合唱団、それに塾など、一時期は9つの習い事を掛け持ちしていましたね。もしかしたら、いまよりも忙しかったかもしれません。しかし、9つも習い事をすると人間、なにも身につきません(笑)。唯一、いまに生きているのは合唱団かな。声がデカくなったのは、そのときの経験が大きいと思います。

6歳のころの植田(本人提供)
6歳のころの植田(本人提供)

――一方の小田さんは……。

小田 私は山と海しかない愛媛県に、3人姉妹の末っ子として生まれ、むちゃくちゃ甘やかされて育ちました。ただ、父親はどうしようもない人で……お母さんに対するDVが酷かったんです。ある日の夜、お母さんは私たち3人を連れて、文字通りの「夜逃げ」をして――8歳だった私は、ランドセルだけを背負ってお母さんの背中についていきました。お母さんは養育費ももらわず、自分の力だけで娘3人を育ててくれた。父親はいないと思っています。

植田 コンビを結成したころの小田は、「いつか父親に会いたい」と口にしていたんです。だけど、あるときからそういうことを言わなくなった。理由をきくと、「実は一度、会った」と。

小田 そのときに、別れて正解な人だと思ってしまったんです。お母さんがどういう気持ちで過ごしてきたのか、少しも考えてないんだな、と。

——賞金で少しでもラクをさせたいという気持ちは、そういう経験からきているんですね。しかし、小田さんは16歳のとき、お母さんに“かけ込み寺”に連れていかれたとか。。

小田 中学生のころの私は、田舎によくいる、可愛げのあるヤンキーでした(笑)。友だちと夜遅くまで遊んだり、原付バイクに乗って遊んだりするのが楽しかったんです。だけど、お母さんとしては、そんな私の将来を心配しますよね……。

7歳のころの小田(本人提供)
7歳のころの小田(本人提供)

——「平成の駆け込み寺」として有名な愛知県のお寺ですよね。

小田 お母さんから、「ご飯を食べに行こう」と誘われて。喜んで車に乗ると、高速道路に入ったんです。「ずいぶんと遠くまで行くなあ」と思っていたら、いつの間にか5時間が経過していて。「もしかしたら二度と友だちと会えなくなるかも知れない」と察した私は、休憩で寄ったパーキングエリアで逃げようとしたんですけど、逃げようがなくて。結局、8時間かけて愛知のお寺に着きました。

——どんな場所だったんですか?

小田 DVで逃げてきた母娘とか、援交(援助交際)していた女の子とか、少年院に入っていた子とか……自分よりも荒れた子たちがたくさんいました。お寺では、朝起きて、自分でご飯を作って食べて、食器を洗って、掃除をして、洗濯して、夜になったら眠るという、当たり前の生活を送るだけでした。
和尚さんは優しくて、私に正面から向き合って接してくれて。愛媛で遊び回っていた私を、ひとりの大人として認めてくれました。自分を大切にするということを和尚さんからは教わりましたし、出会う人すべてとしっかり向き合って生きていこうと思うようになりましたね。そして不思議なことに、ヤンキー時代にやっていたことが何も楽しくなくなったんです。それで、これからはお母さんにも迷惑をかけないように生きようと、和尚さんに「帰りたい」と伝えました。

出典: FANY マガジン
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「伝説のDVD」の衝撃

——植田さんは、ミルクボーイやななまがり、さらには今年のキングオブコント王者・空気階段の鈴木もぐらさんが所属した大阪芸術大学の落語研究寄席の会(落研)の出身ですよね。お笑いは、ずっと好きだったんですか?

植田 大阪という場所柄もあって、ずっとお笑いは身近に感じてきましたが、じつは私がお笑いに“開眼”するきっかけになったのは、ダウンタウンの松本さんの著書『遺書』だったんです。中学時代に、自分だけちょっと浮いている感じがして人間関係に悩んでいた時期があって、そんなときにふと手にしたのが、なぜか家のトイレに置いてあった『遺書』でした。
物事を真正面から見るだけじゃなく、いろんな角度から見ることの重要性みたいなことが書いてあって、自分が求めていたのはまさにこれだ、と(笑)。そして、こんな笑いの表現もあるんだと、興味が湧いたんですね。本当は高校を卒業したらNSCに行こうと思っていたんですけど、こっそり机の引き出しに入れておいたNSCの願書が母親に見つかって大反対されてしまって。それで、映画が好きだったから大阪芸大の映像学科に進んで脚本を学ぶことにしました。

――そこで“名門”の落研に。

植田 落研との出合いは偶然で、入学してすぐにたまたまチラシをもらってライブに行く機会があったんですが、そこではテレビでは見たこともない“深い”漫才の世界が繰り広げられていて……。さらに打ち上げで、伝説のDVDがあると見せてもらったのが、ななまがりさんとミルクボーイさんの学生時代の映像だったんです。ミルクボーイさんなんて、いまの漫才とほぼほぼ変わらない漫才をやっていて、あまりにも衝撃的でした。

出典: FANY マガジン
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――そんな2人が、2013年にNSCに入学して出会うわけですね。

植田 芸人を目指す上で、肝心な相方が大阪芸大では見つからなくて。NSCに入ったのは、完全に相方探しが目的でした。

小田 私はかけ込み寺から戻ったあと、半引きこもり状態になってしまって。定時制の高校だったんで昼間は出かけず、暗い部屋でゲームの「バイオハザード」をして、「めちゃ×2イケてるッ!」(フジテレビ)を観るのが唯一の楽しみでした。自分を明るい気持ちにさせてくれるナインティナインの岡村(隆史)さんに憧れて、ナイナイさんに会うために「NSCに行きたい」とお母さんに伝えたのが17歳のときでした。

10冊のノートにポエムと似顔絵

——どうやってコンビを組んだんですか?

植田 NSCに入学してすぐにあった「相方探しの会」ですね。私たちNSC大阪36期は600人ぐらいいたんですが、「相方探しの会」でコントをやりたいという女の子は4人だけ。その1人が小田でした。

小田 植田は同じ生徒なのに、なぜかMCの先輩と一緒に会を仕切り始めて目立っていたんですよね。話してみると、植田も「めちゃイケ」ファンで、天然素材出身のバッファロー吾郎さんも好きだった。それで、私から「これを読んでください」とノートを渡したんです。

NSC時代の2人 出典: NSC大阪
NSC時代の2人 出典: NSC大阪

植田 10冊ぐらいあって、ずいぶんとネタ作りに一生懸命な、熱い子なんやなと思ったんですが、中身を見たら“ポエム”でした(笑)。たまに絵が描いてあると思ったら、チューリップだったり、岡村さんの似顔絵だったり。唯一、見つけたコントのネタが「ソフトクリーム屋さんVSアイスクリーム屋さん」というもので、これ話広がるか?と(笑)。それでも相性は良さそうだったので、私から組もうと言いました。ただ、初っぱなの練習で台本を渡すと「私はこんなツッコミはできません」と泣き出してしまって……。

小田 だって、愛媛にはツッコミの文化なんてないですもん。

植田 それでネタ作りでは、まず小田の要望を聞いて、その世界観を大事にするようになったんです。私たちのコントでは、とにかく小田がノっているかどうかが大事。小田のやりたいことを形づけていくのが、台本を書く私の仕事だと思っています。小田という芸人が持つ笑いの原液みたいなものを、私が薄めたり、人の口に入れられるように調合していく。「マズっ」と言われることも多いんで、舞台で試すたびにブラッシュアップしていく形ですね。

出典: FANY マガジン
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「ハツの就活」があってもええやん

——たとえば、今回の『THE W』で披露した2本のコントは、どういう経緯で作られていったのでしょうか。

小田 1本目の「焼き鳥屋さん」のネタ作りでは、私がまず「(焼き鳥の)ハツの就活(就職活動)があってもええやん」みたいなことを植田に言う。

植田 それを聞いた私は頭を抱えて、とりあえず台本を書く。それを小田に読ませて、ニッコリ笑ってくれたら、成功。次の作業に移る。

小田 そんなら「ぼんじりの判決」もいいやんって(笑)。

植田 最終決戦の「カニのストーカー」に関しては、小田がとにかくカニ好きなことが出発点にあります。

小田 やっぱり、「カニのストーカーがおってもおもろいやん」から始まりましたね。

——オダウエダといえば、コントで使用する個性的な小道具の数々も特徴です。

小田 小道具は私の担当ですね。(画材専門店の)世界堂や(100均ショップの)ダイソーで素材を買って自分で作っています。舞台で使用する写真などは、フリー素材の写真をプリントアウトして、その上から自分で色を塗っています。だからネタは、原案・小田、原作・植田、小道具・小田という役割分担ですね。

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――おふたりは、むかしからこんな感じなんですか?

小田 とにかく「変な子」と言われていましたね(笑)。

植田 私の場合は、なにせ幼稚園からあるお嬢様学校で、しかも面子があまり変わらないんで、ガラパゴス状態というか、独特なノリのなかで育ちましたね。THE W優勝後、みんなからは「変わんねー」という声が届いていました。

小田 私もギャルしていたころの友だち12人のLINEグループがあるんですけど、オンエアが終わって見たら、650件ぐらいやりとりがあって。子どもがいる友だちは「明日、(通学路の横断歩道で)旗持ちをしないといけないのに寝られない」って(笑)。嬉しかったですね。

——植田さんは、優勝後のネット上のネガティブなコメントから、どうやって立ち直ったんですか?

植田 優勝の翌日、ヘコみまくっていた私が外に出ると、あたりは土砂降りでした。その時、ふと携帯電話に目をやると、ダウンタウンの松本さんが〈自分の思った結果じゃなかったからといって優勝者を悪く言うのは違うと思う。でも、それだけお笑いに熱くなってくれてありがとう!〉とツイートしてくださっていた。それ以来、「非」の意見が少なくなって、いつしか空も晴れ渡っていました(笑)。『遺書』で救われて、ツイートで救われて、そのあと、『ワイドナショー』(フジテレビ系)にも出演させてもらって、松本さんには計3回も救ってもらいました。

出典: FANY マガジン
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小田 あのツイートで世間の流れが変わったよね。いろんな芸人さんが私たちをフォローする発言をしてくれて、そのおかげで植田が元気でいられました。

——次の目標を教えてください。

植田 じつは『ワイドナショー』の収録が終わったあと、松本さんから「キングオブコントを目指すんやろ?」と言われて、「はい」と答えてしまったんです。その約束は絶対に守ります。今回、「オダウエダはおもんなかった」と思った人はたくさんいるかもしれませんが、お笑いはお笑いで見返すしかないですから。

小田 そう、女性芸人No.1の次は、コント日本一決める大会で優勝したいです。

出典: FANY マガジン
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取材・構成 柳川悠二

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