レインドラム
雨の日曜日。家を出るまでは憂鬱だったが、街に出ると気分が変わった。
人はまばらで、週末とは思えない静かな昼さがり。傘にあたる雨音と濡れたアスファルトを蹴るスニーカーの音がドラムンベースのように変則的なリズムを刻み、足取りを軽やかにさせる。
後輩芸人のダイヤモンド小野と待ち合わせした雑居ビルには僕のほうが少し先に着いた。シャッターの閉まった1階店舗の雨よけテントの下にひょいと入り、音符がしみ込んだ傘をたたんでいると、手にチラシを持った男性が階段をおりてきた。
「どうぞ」
手渡されたチラシにはオレンジ色のかくかくした特徴的なフォントで「LEVECHINA」と書かれていた。僕たちがいまから行くつもりの間借りカレーの店名だ。
「ちょうどいま入ろうと思ってたんですよ」
「ありがとうございます。おひとりですか?」
「いや、連れがもうすぐ来るんで一緒に入ります。そういえばネットで見たんですけど、毎週北海道から来られてるんですか?」
「あっ、そうなんですよ」
往復の交通費で部屋が借りられるんじゃないですか? と野暮なことを言いそうになったが言葉を飲み込む。そんなことは当人もわかったうえで来ているんだろうから、言う必要がない。
LEVECHINAは今年2月にオープンしたばかり。スープカレーとスパイスカレーを同時に食べられるという珍しいスタイルの店で気になっていた。
小野が来ると、その店員は
「どうぞ」
と、僕らに先に階段をのぼるようにうながした。
店は4階。二人の濡れた靴底が階段を踏むたびにきゅっきゅっと音を立てる。
「最近忙しいんちゃう?」
「ぼちぼちですね」
「日曜に休みって珍しいな」
「そうなんですよ。急に仕事がバラシになって」
そんな会話をしながら階段をのぼり切る。振り返ると、僕らのうしろについて来ていると思った店員がいなかった。
どういうことかわからない。まだ下にいる。もう少しチラシを配って、何人か客をつかまえてから一斉にカレーをつくるつもりなんだろうか。
急いでいるわけではないからまあいいかと思って、とりあえず店に入ると、バーカウンターにエプロン姿の白髪まじりの男性が立っていた。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
この人が店主だ。毎週北海道から来ているのはさっきの店員ではなく、間違いなくこの人だ。貫禄というか、腕利きの料理人の風格が漂っている。たしか読んだ記事に横顔だけちらっと映った写真が載っていたけれど、こんな雰囲気の人だった。
僕たちは奥の窓際のテーブル席に着いて、カレーとビールを注文した。
「昼からビール飲んだら映画で寝ちゃうなあ」
小野が笑う。
僕らはこのあとシモキタのトリウッドという映画館で、辻村深月さんという直木賞受賞作家原作の『かがみの孤城』というアニメ映画を観る。小野と会うのはひさしぶりだったし、何をしてすごそうかと考えていたら、彼の趣味がアニメ映画の鑑賞だったことを思い出してチケットを取った。
トリウッドは、僕がシモキタに越してきた1999年の末にオープンした。黄色のかわいらしい座席が並ぶ小さな映画館。勝手に同級生のような親しみを持っている。
開業当初は自主制作映画やショートムービーを中心に公開していたが、インディーズ映画やアニメ映画なども取り扱うようになった。デビュー前の新海誠監督のショートムービー『彼女と彼女の猫』や、デビュー作『ほしのこえ』もトリウッドで初めて上映されたということで、いまは「新海誠の聖地」としても有名になっている。
ちなみにトリウッドという名は、映画が盛んなインドの都市ムンバイがかつてボンベイと呼ばれていた時代に、ボンベイでつくられた映画をハリウッドになぞらえてボリウッドと呼んだことに由来する。ボンベイでつくられた映画がボリウッドなら、東京でつくられた映画はトリウッドだ、ということらしい。
カレーを食べながらこの話を小野にすると
「シモウッドじゃないんや」
と、ツッコんだ。言われてみれば、シモウッドでもよかったなと思う。でも、シモウッドだったら下北沢でつくられた映画ということになるから、取り扱う作品が少なすぎるだろう。
いや、結構あるか。ぱっと思いつくだけでも『ざわざわ下北沢』『劇場』『街の上で』。最近は『silent』というドラマや『ぼっち・ざ・ろっく!』というアニメでもシモキタ周辺が取りあげられているから、僕が知らないだけでほかにももっとあるのかもしれない。
カレーを食べ終わったけれど、映画まではまだ1時間以上あったので、すぐ近くにある「いーはとーぼ」というジャズ喫茶で時間をつぶすことにした。この店は1977年創業。僕が生まれる前から営業している。
木のぬくもりを感じる店内。ログハウスみたいに、床も壁もテーブルも椅子もすべて木。古本やCDやレコードも売られていて、おまけにたばこも吸える。たばこを吸わない小野には申し訳ないけれど、ここは僕にとってシモキタ最高峰の店だ。
また窓際のテーブル席を陣取る。外を眺めるとまだ雨がふっていて、本当に日曜日かと疑うほど人どおりが少ない。
ホットコーヒーを飲みながら雑談に興じる。この前こんなことがあったとか、最近どんな仕事をしたとか。
そんなたわいない話をしていると、小野がおもむろにペンのようなものを口にくわえて白い煙を吐き出した。
「え?」
ほのかに甘い香りが漂う。
「たばこ始めたん?」
「いや、これシーシャです。ニコチン、タールゼロのやつです」
「そうなんや。どこのやつ?」
「イップクです」
「え?」
顔をしかめて、もう一度尋ねる。
「イップク?」
「イップクのアップルです」
「言ってる意味がわからへん」
「イップクのアップル知らないんですか?」
「知らんよ。どういうこと?」
「IPPuKっていうメーカーのアップル味です」
「なんやそれ」
くだらない話で笑える瞬間が幸せだ。きっとこれは真理だろう。浮かんでくる言葉がすべてつきなみすぎて、これまた笑える。
「あ、この曲めっちゃいい」
恥ずかしいことも言っている。聴き慣れたイントロに反応して、思わず口にしてしまった。
「なんですか?」
「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブっていうキューバのバンド。昔、この人らのドキュメンタリー映画があって、この曲すごい聴いてんな」
あれは大学3年のとき、渋谷のシネマライズという映画館に観に行った。帰りにシモキタ駅前のヤミイチに飲みに行ったら、楽しそうにギターを弾いて歌う酔っ払ったおじさんたちを見て、ここにもブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブいるやん、と思った。
流れる音楽に耳を傾けながらも小野と談笑していたら、気がつくともう映画が始まる10分前だった。いまはヴァネッサ・パラディの「ナチュラル・ハイ」という曲がかかっている。
これは中学3年のときに買った。レニー・クラヴィッツがプロデュースして世界中で大ヒットしたアルバムだ。この次の曲は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのカバー曲「僕は待ち人」。せめてイントロだけでも聴きたい。そう思いながらも
「そろそろ行こうか」
と、声をかけて席を立つ。
傘をさすと、また心地いいドラムンベースが流れてきた。トリウッドに向かう僕たちの足取りは、ステップを踏むように軽かった。
このコラムの著者であるピストジャムさんの新刊が2022年10月27日に発売されました。
書名:こんなにバイトして芸人つづけなあかんか
著者名:ピストジャム
ISBN:978-4-10-354821-8
価格:1,430円(税込)
発売日:2022年10月27日
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ピストジャム
1978年9月10日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学を卒業後、芸人を志す。NSC東京校に7期生として入学し、2002年4月にデビュー、こがけんと組んだコンビ「マスターピース」「ワンドロップ」など、いくつかのコンビで結成と解散を繰り返し、現在はピン芸人として活動する。カレーや自転車のほか、音楽、映画、読書、アートなどカルチャー全般が趣味。下北沢に23年、住み続けている。