冒険のすすめ
梅雨に入ってから必然的に自転車に乗る機会が減った。ふだんは自転車移動が主なので、この時期はストレスを感じる。毎日天気予報を細かくチェックし、今日は自転車に乗れるかどうかを判断する。
個人的には、雨に濡れることが嫌なわけではない。レインコートも持っているし、バイトなら雨でも自転車で向かう。
しかし、お笑いの仕事や人と会う予定の際は40歳を超えたおじさんがずぶ濡れで登場するわけにはいかないので、おとなしく電車やバスを使うようにしている。なので、いまはまだ降っていないけれど、午後から雨というような予報のときには、帰りは濡れる覚悟でリュックにレインコートを詰めて自転車で出かけることも多い。
用が済んで、あとは家に帰るだけの状態であれば、雨に打たれても全然気にならない。むしろ、楽しい。
雨が強くなればなるほど高揚する。髪をかきあげると水がしたたり、手で顔をぬぐうといつのまにかたれていた鼻水も雨と一緒に流れて爽快な心地になる。気分は冒険家。嵐に立ち向かう船乗りだ。
先日、自転車をこいでいるときに突然子供のころの思い出が目の前によみがえった。一瞬のうちに脳内のシナプスが結び付いて海馬を刺激し、眠っていた記憶を呼び覚ました。それは稲妻や電流がぴかっと光ったのちに、ばちばちと音を立ててほかの稲妻や電流と勢いよく結合して、より強大な光を発するさまに似ていた。
トリガーは雨と笑顔だった。
夕暮れどき、シモキタの駅前を自転車で走っていると雨が激しく降ってきた。歩いていた人たちはいっせいに近くのビルや店の軒下に逃げ込み、道路には誰も人が歩いていない状態になるほどだった。
「Where are my friends?」
ひとりの外国人男性だけが、仲間とはぐれたのか路上に立ちつくし、雨に打たれながら叫んでいた。彼は、ずぶ濡れになっているのに楽しそうに笑っていた。
「あんた、自転車こいでるとき笑ってんの? さっきとなりのおばちゃんから言われたで」
不意に、中学生のころに母から言われた言葉が頭をよぎる。
「一生懸命、自転車で坂道のぼってる学生服の子がいたから車の窓からのぞいてんて。そしたら、あんたやったって。声かけようと思ったけど、楽しそうに笑ってたから声かけられへんかったって」
母は、その話を信じられないというおももちで語ってきた。
「坂で息が苦しかったから、ちょっと口を開けてただけや」
反抗期だったこともあり、ぶっきらぼうにそう答えてすぐに自分の部屋に戻ったけれど、内心は顔から火が出るほど恥ずかしかった。
あのとき、僕はたしかに笑いながら自転車をこいでいた。きっと母は、こんな話を覚えてもいないだろう。
自転車をこいでいるときは、ほとんど笑っている。
いまのカーブはうまく曲がれた。あのルートより、こっちの道のほうが早いな。この前は坂の途中でおりたけど、今日はのぼりきれた。風が気持ちいい。こんなところにカレー屋あったんや。前のハンドルより、このハンドルのほうが調子いいな。結構こいだからやせたんちゃうかな。
小さな成長や、ちょっとしたナルシズムや、たわいもない発見が日々を少しだけ楽しくしてくれる。僕にとって自転車はかけがえのない存在だ。
叫ぶ外国人を尻目に雨の中を進んで行くと、ふだんは行列の絶えない「旧ヤム邸 シモキタ荘」というカレー屋が珍しくすいていた。雨の日は並んでないんだ。また新しい発見があった。
僕は自転車を停め、迷わず入店した。ずぶ濡れの中年男性をやさしく受け入れてくれた店員さんには感謝しかない。
このコラムの著者であるピストジャムさんの新刊が2022年10月27日に発売されました。
書名:こんなにバイトして芸人つづけなあかんか
著者名:ピストジャム
ISBN:978-4-10-354821-8
価格:1,430円(税込)
発売日:2022年10月27日
[/hidefeed]
ピストジャム
1978年9月10日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学を卒業後、芸人を志す。NSC東京校に7期生として入学し、2002年4月にデビュー、こがけんと組んだコンビ「マスターピース」「ワンドロップ」など、いくつかのコンビで結成と解散を繰り返し、現在はピン芸人として活動する。カレーや自転車のほか、音楽、映画、読書、アートなどカルチャー全般が趣味。下北沢に23年、住み続けている。