深夜2時の十字路
深夜、茶沢通りを歩いていると定期的に思い出す事件がある。
事件というとニュースで取り扱われるような物騒なできごとを連想させてしまうので、ここで使うには適した言葉ではないとわかっているのだけれど、それは僕にとってまぎれもなく事件だった。
20年前、下北沢と三軒茶屋を結ぶ茶沢通りの、ちょうど中腹あたりでその事件は起こった。時刻は、深夜2時すぎ。
飲んだ帰りで、少し酔っていた。あとは家に帰って寝るだけ。鼻歌を口ずさみ、ときおり大きなあくびをしながら、完全に気を抜いた状態で歩いていた。
すると、正面から歩道をすごい勢いで走るママチャリがこちらに突進してきた。とっさに歩道の端に身を寄せる。ママチャリは、きいいいっと高い金属音を響かせて僕の横を通りすぎるかと思ったら、ぴったりと僕のとなりで停止した。
驚いて顔を見ると、若い女性だった。おそらく20代前半。当時、僕も24、5歳だったので同世代だ。
Tシャツ姿に髪をうしろで一つにたばねた女性の顔は上気していて、ひたいからは玉のような汗が噴き出していた。かなりの時間、自転車をこいでいたのだろう。Tシャツもにじんでいる。
「すみません、この近くに住んでるかたですか?」
女性から話しかけられた。
僕は思った。
これは、逆ナンだ、と。
生まれて初めての逆ナン。ついに自分も逆ナンされる日が来たか。その場で小躍りしてしまいそうになった。
いまになって思えば、冷静に考えれば状況的に絶対に違うとすぐに理解できたはずだ。しかし、そのときは酔っていたせいもあってか、突然女性から話しかけられたことに舞いあがってしまった。
こういう場面では、どう振る舞えばいいのだろう。もうちょっとおしゃれな服を着ているときに話しかけてほしかった。髪のセット、変じゃないだろうか。この近くに、まだ開いている飲み屋はあったかな。いや、何を考えているんだ。僕には彼女がいるじゃないか。無視しよう。いや、無視は違うか。
いろんなことが頭をかけめぐるなか、精いっぱい自然体をよそおって返事した。
「すぐ近くに住んでます。どうしました?」
女性は、いまにも泣きそうな表情で答えた。
「渋谷に行きたいんですけど、どう行けばいいですか?」
逆ナンじゃなかった。
ただ道を訊かれただけだった。
スマホもない時代。夜中に女性ひとりで道に迷ったら、そりゃあ泣きそうにもなるだろう。
肩を落としたことを悟られないように、また不自然なくらい自然体をよそおう。
「あの十字路まで戻って、右に曲がれば渋谷です。曲がったあとは、ひたすら道なりに行けば着きますよ」
女性は丁寧に頭をさげて、
「ありがとうございます。助かりました」
と、言い残して去って行った。
女性のうしろ姿を黙って見つめる。
逆ナンなんてありえないよな。無事に着いたらいいな。渋谷までなら20分くらいか。どれくらいこげば着くか、時間も教えてあげればよかったかな。そう、その十字路を左に曲がれば渋谷。安全運転で。
女性はさっそうと十字路を右折して視界から消えた。
え!?
逆! 逆! なんで? 渋谷は左に曲がらないと……。
自分が犯したあやまちに気づくのに時間はかからなかった。
みるみる顔が青ざめ、完全に酔いもさめ、その場に立ちつくす。
「右に曲がれば渋谷です」
数秒前に発した自分の言葉が、いつまでも頭の中でこだましていた。
あれから20年経ったいまでも、夜中にこの通りを歩いていると、ふとしたタイミングであの事件を思い出す。
あのときの女性には、謝るすべもないけれど、本当に心から謝罪したいと思っている。
十字路を右に曲がった先にある街は、渋谷ではなく経堂だった。
彼女は、いったいどこまで行ったんだろうか。
地球を一周して、無事に渋谷にたどり着いていることを祈るばかりだ。
このコラムの著者であるピストジャムさんの新刊が2022年10月27日に発売されました。
書名:こんなにバイトして芸人つづけなあかんか
著者名:ピストジャム
ISBN:978-4-10-354821-8
価格:1,430円(税込)
発売日:2022年10月27日
[/hidefeed]
ピストジャム
1978年9月10日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学を卒業後、芸人を志す。NSC東京校に7期生として入学し、2002年4月にデビュー、こがけんと組んだコンビ「マスターピース」「ワンドロップ」など、いくつかのコンビで結成と解散を繰り返し、現在はピン芸人として活動する。カレーや自転車のほか、音楽、映画、読書、アートなどカルチャー全般が趣味。下北沢に23年、住み続けている。