そのうち空も飛べるはず
子供のころ、人間は大人になったら自然と立派になるもんだと思っていた。モラルやマナーや知識も年齢を重ねれば自然と身につくものだと考えていた。昔ヤンキーだった人も大人になったらまじめに働くよね、みたいな漠然とした楽観的な感覚で。
でも、実際はそうじゃない。モラルもマナーも知識も、意識的に身につけようとして努力しないととうてい体得できない。もしかしたら、ほかの人は生きていくなかでナチュラルに獲得しているのかもしれないけれど、少なくとも僕はそうではない。
知らないことも多すぎる。積立NISAが、とかiDeCoが、とか言われても全然わからない。株価とか、いろんな保険の話をされてもついていけない。この前なんて、秋田と岩手、どっちが右で、どっちが左だったかわからなくなった。そんなレベルだ。
テレビ番組で、おバカタレントやギャルが知識のないことを芸やネタにしているのはとてもおもしろいし、笑える。しかし、僕がそれをやってもきっと笑ってもらえないだろう。普通に引かれるだけだ。
性格的に、わからなかったら「秋田と岩手って、どっちが右で、どっちが左でしたっけ?」と、正直に言うと思うが、いい歳のおっさんがそんなことを言っていたら、まわりから白い目で見られるし、若い人たちからしたら、あんな中年になりたくないな、情けないな、と思われるに違いない。なにより、そんな自分が恥ずかしい。
と、先ほど会ったばかりの名前も知らない男性に、グラス片手に店の外で話していた。
その男性は、うんうんと小さく首を振りながら「いい奴か悪い奴かで言うと、お前はいい奴だよ」と言って、ごくりと酒を飲みほした。
今夜は『Bar Bachibouzouk(バシブズーク)』の20周年パーティー。チャージなしの全ドリンク500円。店内はすでに満席で、店の前はお祝いに駆けつけた人たちであふれかえっていた。
10人以上は外にたまっている。有名ミュージシャンや著名な漫画家や人気脚本家のかたも、みな外で立って飲んでいる。
シモキタのバーには特別扱いが存在しない。みんな等しく、ただの客で酔っ払い。好きな場所で、好きなように飲んで帰るだけ。僕がシモキタで飲み始めた20年前もそうだったし、もっともっと昔もそうだったんだろう。
大学生のころにシモキタのバーで知り合った、マサイさんというおじいさんに近いおじさんがいた。白髪の短髪で、無精ひげも白く、やせていて、いつもバーのカウンターで、ろくろをまわすのを失敗して、ぐにゃっとつぶれた器のような体勢で飲んでいた。顔を合わせると、「おお、ノカンシ」と僕の本名をフルネームで呼び、「最近どうだ?」「いや、昨日会ったばっかり」みたいな軽口をたたいていたけれど、マサイさんは日本のブルース界では知らない人がいないほどの重鎮だと、あとからまわりから聞かされて驚いた。
いま何杯目だろう。ポケットに手を突っ込んで、所持金を数える。千円札が一枚と五百円玉が一枚。5000円あったから……7杯飲んだのか。
まだ、もう一杯飲めるな。ポケットの中から五百円玉を取り出し、店内に入って、ジュンさんにラムトニックを注文する。
席は空きができていたけれど、夜風に吹かれて飲むのが気持ちよかったので、またグラスを持って外に出る。さっき僕が話していた人はもう帰ったようだ。
「あのとき真人が読んでいた『君たちはどう生きるか』は、たぶんあれ初版で、あの本っていうのはもともと修身っていう道徳について……」
おっと、今度はこっちでおもしろそうな話をしている人がいる。
「すいません、僕もまぜてもらっていいですか?」
とっさに出た「まぜて」という言葉がまた子供っぽすぎると思ったけれど、「どうぞ」と、こころよくまぜてくれためがねの男性の笑顔を見て、ここはピーター・パンの世界みたいだなと思った。
このコラムの著者であるピストジャムさんの新刊が2022年10月27日に発売されました。
書名:こんなにバイトして芸人つづけなあかんか
著者名:ピストジャム
ISBN:978-4-10-354821-8
価格:1,430円(税込)
発売日:2022年10月27日
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ピストジャム
1978年9月10日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学を卒業後、芸人を志す。NSC東京校に7期生として入学し、2002年4月にデビュー、こがけんと組んだコンビ「マスターピース」「ワンドロップ」など、いくつかのコンビで結成と解散を繰り返し、現在はピン芸人として活動する。カレーや自転車のほか、音楽、映画、読書、アートなどカルチャー全般が趣味。下北沢に23年、住み続けている。