【独占】元ニブンノゴ!宮地ケンスケが本音で語った芸人人生と退所の理由「吉本での27年間に一片の悔いなし!」

ニブンノゴ!の元メンバーで現在は構成作家や放送作家として活躍の幅を広げている宮地ケンスケ(トリオ時の名義は宮地謙典)が、27年間所属した吉本興業を9月末で退所することになりました。今年2月のトリオ解散から今回の退所と、宮地にとっては大きな転機の連続。ファニマガでは今回、新しい道を歩み始める宮地に独占インタビュー! 現在の心境とこれからの展望などを語ってもらいました。

出典: FANY マガジン
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まるで「親」みたいに見守ってくれた

──まずデビューから振り返りたいのですが1997年デビューで、NSC(吉本総合芸能学院)東京2期生と同期になりますよね。

そうですね。1997年4月に地元・高知からニブンノゴ!の3人(宮地、森本英樹、大川知英)で出てきまして。もともと高知でも1年半、アマチュアでお笑いをやっていて、初ライブを県職員の方が見に来てくれたのがきっかけで県がバックアップしてくれて、上京前に500人キャパの大会場でライブをやらせてもらったこともあったんですよね。

で、東京でお笑いやろうとなって3人で出てきたはいいけど、事務所も何も決まっておらず。オーディション雑誌を見て事務所に応募してみても何の音沙汰もなく……。あっという間に6月の終わりになってしまった。

そんなときに、渋谷公園通り劇場(かつて渋谷にあった吉本の劇場)を勉強がてら見に行ったら、そこで130R(板尾創路、ほんこん)さんがMCをやられていた新人発掘オーディションライブがあって、「新人芸人募集」と書いてあった。

出典: FANY マガジン
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実は僕らはライバルが少ないところでチヤホヤされたいと思ってたので(笑)、ライバルが多そうな吉本に入ることはまったく考えてなかったんです。でも、そんなこと言っている場合でもなかったので、とりあえず連絡してみたら次の日に返事がきて。それでオーディションに呼ばれて、地元でやっていたネタをやったら「来週のライブから出ていいよ」と。連絡してから1週間ぐらいで所属が決まったかたちでした。

──3カ月くらいなかなか決まらなかったのが、吉本に連絡したらまさかの1週間で!?

そうなんです。運命的というか、夢のような流れでしたね。最初のライブですぐ昇格できたし、まさにトントン拍子でした。

──公園通り劇場の所属になって、お笑い芸人として歩み始めてどうでしたか?

カルチャーショックはありましたね。NSCに行ってなかったので、いろんな基礎ができてなくて、自分で失敗して都度、気づかないといけないんですよね。だから1~2年目は作家さんに怒られて、社員さんにも注意されてっていう日々でした。しかも自分たちも若いので、トガっている部分もあったので。

当時は先輩方も「無茶することが笑い」みたいなところもあったから。どれだけ体張って無茶して先輩を笑わせることができるのかっていう時代だったので。いま考えると、ほんとにイヤでしたね~(苦笑)。

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──そこから27年、吉本での思い出は語りつくせないほどあるとは思いますが。

いや~、ほんとにめちゃくちゃあるけど、吉本でよかったなと思うのは、こんな大きな会社で社員さんも多いんですけど、お笑いが好きで熱い気持ちを持った人たちに巡り会えたこと。これまでに何人も、まるで「親」みたいに親身になってくれる社員さんに出会えた。「お前、元気か? 食えてるのか?」って言ってくれる人たちが、その時々でいてくれたなって感じます。

これは声を大にして言いたいんですけど、ここまで賞レースとかで結果出していなくて、低空飛行でそれでもやってこられた芸人っていうのは、この先なかなか出てこないんじゃないかと(笑)。僕らがやってこられたいちばんの理由が、吉本という会社の“人情味”にあった気がします。

脚本家という世界を開いたのは今田耕司と神保町花月

──宮地さんはニブンノゴ!で芸人として活動されつつ、個人として、芝居の脚本などの執筆もしてきました。そこが、いまにつながっていますよね。

きっかけは、相方の2人がロンドンブーツ1号2号の田村淳さんとjealkb(ジュアルケービー)というバンドを始めたことなんです。そのライブやツアーで相方がそっちに時間を割くタイミングがあって、時間ができた僕に、当時、出演していた神保町花月の支配人が「時間あるんだったら、一度、脚本を書いてみませんか」と声をかけてくださって。

そのときに、その支配人に脚本の作り方をイチから教えていただいたんですよね。プロット(話のおおまかなあらすじ)を書くのも初めてで。まるで編集者と漫画家みたいな感じで、いろいろとアドバイスをいただきながら書き上げたのが初めての脚本『バッド・バースデー!』(2009年上演)でした。本当にその機会をくださったのを、いまでも感謝しています。

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──芝居の脚本もそうですが、宮地さんは吉本新喜劇などの台本のイメージも強くあります。

最初は今田耕司さんが「書いてみるか~?」って声をかけてくださって。新宿のルミネtheよしもとでやっていた今田さん座長のSPコメディという枠で。

今田さんには、新喜劇での笑いというものをいろいろと教えていただきました。面白いことをどんどんテンポよく言うのが新喜劇と思っていたら、今田さんは感情の動きとか話の筋をすごく大事にされるんですよね。「この流れのなかで小ネタがあっても、お客さんは混乱するんやないかな? だから説明に徹したほうがええんちゃうか」とか。まさに目からウロコでした。

今田さんとの出会いは、本当に自分の財産になっていて。30歳くらいから結婚する43~44歳ぐらいまでは、今田さんとプライベートをご一緒させていただく機会も多かったですし、本当にずっとお世話になった方です。

今田さんは怒ったりしないんです。上も下もなくしゃべり方も変わらない。そんな今田さんの背中を見ていて、自分のダメなところに気づかされることもありましたし、人間として大事なことを吸収させてもらいました。そのおかげで、自分の人間関係にも厚みが出た気がしています。

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もうひとりの恩人は仕事の幅を広げてくれた寛平師匠

そして、もう1人、いまは新喜劇のGM(ゼネラルマネージャー)になられている間寛平師匠。自分の仕事の幅を広げるのに、ものすごくお力を貸していただいた方です。

初めてお会いしたのは7~8年前、ルミネのSPコメディ枠に僕が代役で出ることになったときに、誰かが「宮地さんって脚本も書けるんですよ」と言ったのを聞いて、寛平師匠が「次の新作、お前に書いてもらおうかな」とその場でチャンスをくださったんです。

寛平師匠は「変でもいいから攻めたものをやりたい」と、あの年齢でも攻めている方で、枠からはみ出すような脚本を求めてくる。初めにお願いされたのが「ウナギの養殖をしている人とダムの建設に反対している人とのもめごとの話を書いてくれ」と。

とにかく調べて1週間めちゃくちゃ向き合ったんだけど、いっこうに面白くならなくて(笑)。それを正直に伝えたら、「じゃ、ボケは俺だけでええから、あとは面白くしてくれるツッコミ7人集めてくれ」と。それで『寛平がまとわりつく7.5人』というユニットコントを書いたんです。

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出典: @nibugomiyaji

それが斬新で、めちゃくちゃ盛り上がって、結局、その後3回やって、さらに単独公演にまでなったんですよね。その後、寛平師匠が新喜劇のGMに就任されたときに「いまの新喜劇を新しいものにしたい。宮地、書いてみたらどうや」と言ってくださって。65周年の4座長公演の1発目も書かせてもらった。そういう縁がつながって、いまはNGK(なんばグランド花月)の新喜劇(アキ座長公演)でも脚本を書かせてもらったりしています。

寛平師匠の自由な発想力って僕にはないものなので、いつも感服していますし、自分のクリエイティビティの枠を毎回、広げていただいている気がしていますね。

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吉本を退所する本当の理由とは?

──話を聞いていると、宮地さんは“吉本愛”が深いように感じるのですが、なぜいま27年間所属した吉本を去る決断をしたのですか?

いや、たぶん愛が深いからこそ決断した感じですね。いま48歳なんですけど、吉本にお世話になりすぎて、このままの状態で50代を迎えていいのかっていう葛藤が出てきて。家族みたいに親身になって手を差し伸べてくれる方々にずっと甘えていていいのかなというところもあって。

あとは単純に、もうプレイヤー(芸人)として舞台に立つつもりがない、というのがいちばん大きい。ニブンノゴ!の解散を発表した2月にそのまま退所するっていうのがよかったのかもしれないけど、その段階では人前に出るのも好きだったので決断できなくて。2月からの数カ月を作家としてやってきて、「あ、自分の50代はここに骨をうずめる覚悟でやってみてもいいのかな」と思えたので、それは必要な数カ月でしたね。

──今後、やっていきたいことは?

吉本を離れても大丈夫かもと思えた理由が、今年になって吉本新喜劇の台本を本格的に書かせてもらっていることなんです。ありがたいことに、吉本新喜劇というものに携われているので、だから逆に離れても大丈夫なのかなと思えたのもあります。

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あとは、テレビの作家の仕事もさせていただいていて。僕が作家として何かアドバンテージがあるとしたら、がっつり25年以上もプレイヤーをしてから作家になったということ。芸人をやってた人が作家になるケースは多いけど、僕みたいにがっつりやってた人って、たぶんあんまりいないと思うので。

テレビもネットもそうですけど、タレントさんの気持ちは自分もやっていただけに誰よりもわかるので。タレントさんに寄り添ったコンテンツを作っていけたらなと。制作陣も出演する側もどちらもwin-winになるようなコンテンツに、この先、自分が携われたらなと思っています。

──吉本を去ると決めたいま、どんな気持ちですか?

もうね、寂しさがめちゃくちゃありますよ。でも、うれしさと寂しさが共存している感じもあります。うれしさというのは、僕がマネージャーさんに退所のことを伝えたら、1週間後には、いまや吉本の重鎮の社員さんたちが「辞めて大丈夫なのか」と心配してくださっていたと聞いて。何の功績も残していないような僕のことを心配してくださるって、すごくありがたいなと。改めて、いい会社だったんだなって思いますね。

いま48歳で、50歳が見えてきた。荒波だと思うけど、50代を攻めていくための第一歩が今回の退所なんですよね。不安はもちろんあります。ありますけど、トリオ解散からジワジワと始まっていた流れでもあるし、作家という場所が自分にも合うなと思うので。一度きりの人生の20代、30代、40代を吉本興業で過ごさせていただいたことに本当に感謝しかないし、一片の悔いもないです!

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