吉本興業東京本部のとある会議室。その部屋で芸人ライターの僕、5GAP・クボケンはひとりの芸人さんを待っていました。
「遅くなってごめんね。よかったらコレ、和菓子なんだけど、いまうちで作ってて」
そう言って現れると、「準組」(じゅんぐみ)という名で自身が手掛けているお米を使ったイチゴ大福を振る舞ってくれました。
その芸人さんとは次長課長・河本準一さん。

2025年2月17日(月)に自身のSNSを通じ、体調不良のために翌日から当面の間、休養を取ることが発表されました。そしてそれからおよそ3カ月半が経った6月1日(日)、自身の病気が「パニック障害」と「うつ病」であると公表し、「完全体ではありませんが、少しずつ体の調子が戻って来ました」と近況を報告しました。
そんな現在の心境や苦悩、さらには芸人・河本準一としてのこれからを、休養を発表して以来、初めて語ってくれました。
「人に見られるのが怖い」そして向かった先
――河本さん自身が体調の変化や違和感を覚えたのは、いつくらいからですか?
本当に「あっ……」と感じたのは、今年の1月中旬から終わりくらい。生放送中に倒れたのが(1月)27日だったと思う。生放送を抜けて、そのまま救急車で運ばれたんやけど。それが最初。
――そんなことがあったんですね。その日から休養を発表するまでの1カ月間は、どんな感じだったのですか?
めっちゃしんどかったよ。ずっとマネージャーを頼って、その日の仕事に行けるかどうか(体調を)確認して。この仕事って勝手に休めないからさ。

――確かにそうですね。決まっていた仕事は出演したのですか?
そう。でもかなり休憩しつつ、酸素ボンベを吸いながら出たりして。なんて言うかなぁ、(普通にしてても)マラソンで走ったあととか、ダッシュしたりしたあとの酸欠状態みたいな感覚になるんだよね。
だから酸素ボンベを使ってみたり、ビニール袋の中で息を吸ったり吐いたりとか、いろいろと試してみたんだけど、その直後はちょっとラクになるんだけど、また収録に戻ると、もう居ても立ってもいられなくなるんだよね。だから正直、(仕事としての)成果は挙げられてない。ただ出てるだけ。これで喋って倒れたらどうしようとか、そればかり考えちゃう。
――そういうことがあったあとに休養発表したんですね。休養していた3カ月半は、どう過ごされてたんですか?
僕らの時って芸人なりたいと思うキッカケは、モテたいとか、お金持ちになりたいとか、まぁだいたいそういう不純な理由からでしょ??
――確かにそうですね(笑)。
まぁ結局、無理なんだけどね。でも、だんだんそうなっていけて嬉しかった自分が、今度は人に見られることへの恐怖を感じるようになってね。見てないのかもしれないけど、すごく見られてると感じてしまって。だから……ちょっと出ようかなって。違う国に出た。

――それはどちらに?
マレーシア。それも縁で、10年以上前に僕らがやらせてもらった番組の中で「アジア住みます芸人」っていう企画があって、そこに出てた子(後輩芸人)が1回も日本に帰って来ずに、いまも現役で向こうで芸人をやっていて。その子に全部話したら、親身になるというよりは「まぁ、とりあえず1回来てみて下さいよ〜」という感じで。
お医者さんにも相談して、薬の飲み過ぎにならないようにとか、飛行機で倒れたりしないように帯同者も一緒にとか、対策をとって2週間行ったかな。
――マレーシアでの環境はどうでしたか?
めちゃくちゃよかったよ。空港で、マレーシア住みます芸人のその子が待っていてくれて。その子が案内するままに行くことになったんだけど、観光で来てるわけじゃないのを知ってるから、観光名所にも行かない。それで連れて行ってもらったのが、“腕をケガしてるおじさんの家”。それがマレーシアの最初。
――いや河本さん、すみません! ぜんぜん想像ができないんですけど(笑)。
だって観光で来てるわけじゃないからね(笑)。でも、そこが昭和の民家のような感じで、友だちの友だちとかでもウェルカムで「みんな入って」っていう、“三丁目の夕日”みたいな昔のよき日本の雰囲気で、それが逆に本当によかったなって思った。

言葉も英語やマレー語が基本で、正直、日本語が伝わらないという環境が嬉しかったなぁ。何も聞こえないし、日本のウワサとかも。マレーの人しか集まらない現地の行事にも参加したりして楽しかった。俺が誰かもわかられていないから。マレーシアはね、心のケアのできる国だなって本当に感じたんだよね。
ネプチューン・名倉から「お前、よう頑張ったな」
――休養中に連絡をくれた芸人さんはいましたか?
(2月に休養を)発表して記事になって、その日のうちに(ネプチューンの)名倉(潤)さんから電話があったかな。メールとかLINEは他の人からも何千件ともらっていて、それは嬉しいんだけど、みんな「大丈夫ですか?」とか「頑張って!」というんだよね。でも、名倉さんは同じように病気をした経験があるから、きっとわかるんだろうね。「お前、よう頑張ったな」って言ってくれたの。その言葉を言ってくれたのは、名倉さんひとりだけかな。
――なるほど、深いですね。
(この病気になった人は)大丈夫じゃないし、もう頑張ったんだよ。だからこうなってん。「お前、よう頑張ったな。お疲れさん。今度はお前の番な、休んでええよ。何も考えんでええからな」って、こう言って理解してくれるのは、病気になった人でないとなかなか難しいんだろうね。
――確かにそうかもしれませんね。
あとは、はんにゃ.・金田(哲)、パンサー・尾形(貴弘)、とろサーモン・久保田(かずのぶ)。このメンバーは家も近かったりして、様子を見にちょくちょく来てくれて。みんなやっぱり付き合いが長いから、(「頑張って」とか)そういう言葉はいっさい出てこなくて、「昨日、映画観て…」とか他愛もない話をしにくるんだよね。

それから金田なんかは、外傷だけじゃなくメンタルケアにもいいという「湯治」が、武田信玄の時代から山梨のほうにあるっていうのを調べて、「見つけたんで行きましょう!」ってすぐ車で迎えに来てくれてね。部屋も予約してくれてて、寝る部屋もきっちり別々に分けられてて……アイツね、ちゃんと自分の“潔癖症”を出してきたの、俺にも。
――え!? そっち? 河本さんのためじゃなくて自分の潔癖のために?(笑)
そう。「僕ここに服置きたいし」とか「一緒に食事をつまみたくない」とか、全部自分のために部屋を別々にしてた。でも、いいヤツだよ。金田はこんなにも、(不調の自分に)気を使わないんだって改めて思った。それは、普段どおりの金田でいてくれたってことだもん。
――それが愛情ですね。
尾形はね、「海外に遊びに行ったら女の子にモテたいっす!!」とか、「マカオ行きましょう!!」とか、自分の願望の話ばっかりして。1時間くらいずっと。その日は俺の病気の話を聞いてもらうので、みんな集まってくれたのに(笑)。
――尾形らしいですね(笑)。
そう。気を使ってないんだなってわかるのが、仲間だなぁって。それから(中川家の)剛さんとかも、だいぶ前にご自身が病気したのがあったからなのか、言葉は短いんだけど、「速い速い、ゆっくりゆっくり」みたいな、こんな言葉を言ってくれるんだよね。それは剛さんも経験してるから。

――わかるんですね。
文章が長いとね、もう精神的に文字が見れなくて。それでLINEも何千件って未読の状態になってしまって。そしたらマネージャーがね「LINEはピン留めできますよ」って教えてくれたの。いまの自分にとって重要な人のLINEの名前を右にシュッとスライドさせると、ピンのマークが出てきて、それを押すとその人がいちばん上に表示されると。まぁ、それ聞いて俺は「あっ、あ〜……知ってたよ」って言ったけど。
――絶対知らなかったでしょ!(笑)
ハハハッ。それでね、いろんな人を“ピン留め”させてもらったの。ただ、芸人は何百人といるから精査するのが難しくて。だから本当に本当に申し訳ないけど、近所で会えるメンバーを優先して、あとずっと世話してくれてた尾形とか、あとはギリギリまでご飯食べさせて下さったりと、お世話になってる(明石家)さんまさん。それからLINEはやっていない村上ショージ師匠や寛平師匠はショートメッセージとか、そういうかたちにさせてもらってたんだよね。
そしたら……当然、さんまさんからLINEが来るんだよね。「どうや?」とか「慌てるな」とか。ただ最近になって、さんまさんの中でその「どうや?」とかがだんだん面白くなくなってきたんだろうね……もう遂には……明らかにネタ写真とか送りだしてきて、「どうや?」って。
――「どうや?」じゃないですよね!(笑)
せやねん。もうね、俺のことは全然別のところに置いといて、自分が「どうや?」でいかに遊ぶかを考え出してるじゃん、と。そう思った瞬間、ピン留め外したよ。

――ハハハハハッ!!!(笑)
俺ね、このやり取りでなったんじゃないかと思ったよ、病気に。その瞬間、スッと外した。よかった、もうLINEに出てこない“明石家さんま”という文字が(笑)。もうLINEのいちばん下まで下がった。さんまさんは今年、古希でしょ。今年、古希の人がネタ写真バンバン送ってきた。はい、最下位。LINEコメントの最下位!
人間・河本準一のこれから
――いま僕が答えを聞くのは違うのかもしれませんが、今後の活動というのはどのようなペースやかたちをイメージしているのでしょうか?
この世界は自分のテスト販売ができないんでね、(お客さんから)おカネをもらってるわけだから。だから劇場で生のお客さんの前でやるのは、自分的にまだいちばんキツいのかもしれない。それならコンビでやってるラジオとか、名倉さんと共演している番組、さんまさんの大阪の番組とか、そういうかたちなのかもしれないし。
また、そんななかで新しいことへの挑戦にも、けっこう重きを置いてて。「準組」もそうだしね。そこに来るお客さんに対しても、笑いや笑顔は必要で。だから、そっちのほうが本業の芸人のプラクティスには十分なるなと。

――なるほど、確かにそうですね。
催事のイベントとかで、お客さんから「ずいぶん痩せたんじゃない?」「頑張って!」っていう言葉をもらうことでも、いい練習になるし。もちろん「頑張ったからこうなってん!」とはよう言わん。その方たちにとって最大限の言葉で声を掛けてもらってるわけだからね。それにこんなに日本語って言葉があるのに、多くの人が「頑張って!」「大丈夫?」という言葉になるのは、やはりこの病気のことをもっと発信していかないと、って思うね。
たとえば、いまは治ってないけど絶対に治るんだっていう強い気持ちが必要だったり、自分の時間を大切にすること。症状でいうなら、性欲がなくなってEDになること、お酒との親和性が高くてお酒に走ってしまう人が半分いるとか。
だから、そういう病気を抱えたままでも、一緒にこれくらいの歩数だったら合わないかな? とか考える講演会を今後、やりたいなと。
――うん、すごくいい活動ですね。
テレビとかで20代に負けへんように、いまからまたワーッてやりたいとかはなくてね。それだったら1人でゆっくり喋れる時間をもらって、病気の予備軍、もしくはそうなってる人、そうなってる人が親族にいる人、会社の部下に病気になってる人がいる役員の方、その病気にどう接していかわからない人、そういう人たちとみんなで一緒に一歩ずつ歩いてみたいなと、俺は思うんだよね。

こう語って前を向く河本さん。じつは河本さんが「心のケアができる国」と語ったマレーシアの話には、続きがありました。とても印象的だったので、最後にご紹介したいと思います。
河本 マレーシアという国はね、自分にとってホンマに“病院”のようなイメージがあるんだよ。だから将来はここ(マレーシア)に重きを置いて日本とマレーシアの二拠点生活をしたいと思うくらい気持ちを動かしてくれたね。もう俺は50年生きたわけだからね。100歳まで生きられるなんて奇跡だし、もう(人生を)折り返してたのよ、とっくに。これね、病気をした人ならわかると思うんだけど、考えるんだよ。「俺はあと何年生きられるんだろう」って。
――それはわかります。すみません……なんか涙が出てきちゃって。
じつは僕は腎臓移植を経験しておりまして、「自分の命」というものについて河本さんが語る言葉に共感して、つい目に涙を浮かべてしまいました。そして河本さんは、こう言いました。
「マレーシアに行ったことで思ったことがあって。それは、いままでは圧倒的にまわりの他人のことを考え過ぎてた。だからこれからはね、まずは“自分”でいることを考えるんだ」

■河本準一(こうもと・じゅんいち)
1975年4月7日生まれ。岡山県出身。NSC(吉本総合芸能学院)大阪校13期生。井上聡とお笑いコンビ「次長課長」を結成。こだわりのお米でみんなを笑顔にしたいという思いから自ら米作りも行う「準組」を立ち上げるなど活動は多岐に渡る。