「人生の最期に走馬灯で
このネタがよぎりますようにマジで」
#4 ななまがり『遭難』

人生の最期に走馬灯でこのネタがよぎりますようにマジで

極私的に理屈抜きで好きなコントや漫才たちを、あえて「どうして自分はこのネタが好きなのだろうか」とああだこうだ理屈をつけながら考えて、勝手に納得していく連載です。

極私的に理屈抜きで好きなコントや漫才たちを、あえて「どうして自分はこのネタが好きなのだろうか」とああだこうだ理屈をつけながら考えて、勝手に納得していく連載です。

出典: FANY マガジン

「人生の最期に走馬灯でこのネタがよぎりますようにマジで」
文:ワクサカソウヘイ(文筆業)

極私的に理屈抜きで好きなコントや漫才たちを、あえて「どうして自分はこのネタが好きなのだろうか」とああだこうだ理屈をつけながら考えて、勝手に納得していく連載です。
第四回目はななまがりのコント『遭難』の爽快感について思いを巡らせます。

#4
ななまがり『遭難』

出典: ななまがりコントグラフィー

たとえば、日曜日。
布団の中でもぞもぞと目を覚まし、窓を見ればそこには爽やかな青空が広がっている。初夏である。
そういえば、しばらく太陽の光を浴びていない。今日は絶好の外出日和だ。
ちょっと遠くの公園へ足を延ばしてみたりしようか。あそこには近くに美術館があったはず、散歩のついでに立ち寄ってみるのもいいだろう。
こうしてにわかに一日の予定が華やぎはじめる。しかしスマホで情報を確認すると、ああ、残念ながら美術館は休館中であった。
そんな感じで休日の出鼻がくじかれ、テンションが色あせた時は、YouTubeのななまがりチャンネルを「散歩」することをおすすめしたい。
そこにアップされている動画を視聴するだけで、萎えた気分は急速に満たされたものへと転じていくはずである。
ななまがりのコント作品群をブラウザ上で再生しているうち、私はいつも、雲一つない青空を目の当たりにしたような爽やかな心地に襲われる。とにかく、あなたもいますぐにYouTubeを開いて、それを体感してほしい。言いたいことは、以上である。
ただただ無目的に晴れ渡る空に、蛇足的な言葉を添えることなど、私にはとてもできない。
しかし、それでは話が終わってしまうので、なぜ自分はななまがりのコントに爽快感を覚えてしまうのか、無理やりに理由を探っていく。
そして気がつく。
ななまがりのネタはどれも「無意味の美学」に貫かれていて、自分はそこに青空を見ているのだということに。

ナンセンスの美術展

ななまがりのチャンネルに投稿されている無数のコント動画のうち、とりわけに私の心を惹きつけるのは、『遭難』というネタである。
山の麓に存在していると思われる民家に、ひとりの男が飛び込んでくる。
男は、遭難から命からがら下山してきた直後の身であり、もう一週間なにも口にしていない旨を、その民家の主に伝える。
家主はすぐに、食事を提供する。男は感謝を伝えて、器に箸を伸ばす。
するとそこで、端的に異常な景色が示される。
男は普通に、落ち着いて食事をするのである。
遭難直後とは思えないほどの穏やかさでもって、水をゆっくり飲んだりもする。
なんなら、「この部屋、いいっすね」などと、食事以外のことに興味を示したりもする。
もっと飯にがっつくはずのシチュエーションなのに、そうはならない。家主は大声でその違和感を指摘するが、男の所作が特に改善されることはない。
そこで展開されているのは、見事なまでになにも残さない、明快なバカバカしさに溢れた四分間のコントである。
ななまがりのYouTubeチャンネルには、コント『遭難』にかぎらず、無数の荒唐無稽なネタが展示されている。それは図らずも、「シュルレアリスムの美術展」の様相をなしてしまっている。私たちはそれらを鑑賞しているうち、ななまがりのつくり出す奇妙な宇宙へと連れ去られてしまう。
愚直なまでに無意味を描こうとする態度が、彼らのあらゆるネタの中に詰まっていて、私はそれに触れるたびに感動のようなものを覚えてしまったりする。

マグリットが描いた無意味

さて、話はちょっと変わり。
ここに、ルネ・マグリットという画家の存在を提示したい。
彼はベルギーに生まれ、この世に数多くの絵画作品を産み落とした。

数年前のことだ。マグリットの特別展が日本で開催され、私はそこに足を運んだ。そして、朦朧とするような思いを味わった。
マグリット、生涯をかけて、「ボケっぱなし」なのである。
男の顔の前に林檎が浮かび上がる絵画のタイトルは、『人の子』。
空中に浮かぶ傘とコップが描かれた絵画のタイトルは、『ヘーゲルの休日』。
海岸でふたりの半魚人が寄り添う様を描いた絵画のタイトルは、『自然の驚異』。
絵画の中で描かれている景色がそもそも常軌を逸したものばかりなのに、さらにタイトルがまったくもって内容とリンクしていない。どうして傘とコップの絵画の題が『ヘーゲルの休日』になるのだ。おかしいだろ、マグリット。どんな休日だ、それ。
会場を埋め尽くす絵画、そのほとんどが不条理なトーンで塗り固められていて、私はなんだか頭をクラクラとさせた。この世には、「無意味」にここまで魂を捧げた人物が存在していたのだ。
会場の出口付近に差し掛かった時であったろうか。展示室の隅に、それまで目にしてきたのとは違うトーンの作品が飾られているのを発見した。それは、爽やかな青空の景色を描いただけの、シンプル絵画だった。
よかった。さすがのマグリットも、たまには普通の絵を描いたりしていたのだ。ホッと胸をなでおろし、その絵画のタイトルを確認する。
『呪い』
私は、膝から崩れそうになった。
ボケっぱなしだ、マグリット。
青空の絵画に、『呪い』って。どこまでもボケっぱなしではないか。
「普通であること」をストレートに拒否し続ける姿勢に、私たちは圧倒され、脱力する。やがて最後は、ある種の爽快な思いを得たりもする。

「バカの角度」の先に広がる青空

さて、話をコント『遭難』に戻す。
ななまがりもまた、このネタの中で、マグリットと同じように、「普通であること」を極端に拒否しながら、非日常的な景色を描き続けている。
遭難直後であるのだから、がっついて食事をするのが「普通」であるはずなのに、落ち着いて食べる。
がぶがぶと水を飲むのが「普通」であるはずなのに、ゆっくり飲む。
部屋の様子に目をやる余裕がない状態こそが「普通」であるはずなのに、カーテンの色合いに感想を漏らしたりする。
男はそうやって、「普通であること」を清々しいまでに拒否し続ける。
こうして、一枚のナンセンスな絵画は完成される。
「普通ではない」という状態を描こうとするとき、人はついつい、魔球のような複雑なボールを投げてしまったりする。
「シュルレアリスム」という言葉を盾にして、ぐちゃぐちゃと描き込みを施した結果、なんだか中途半端な構図に陥ってしまった絵画作品は、この世にごまんと溢れている。
パキッと音の鳴るような不条理を、直球で投げることができるのは、「無意味の美学」を知っている一握りの職人だけなのである。

出典: FANY マガジン

ななまがりが出力している「バカの角度」は、実に直線的だ。スッと、まっすぐに、青空に続いているような、そしてその青空にさえ『呪い』とタイトルを付けてしまうような、まぶしい「バカの角度」が、そこにはある。
ななまがりのコント動画さえあれば、私は満たされた休日を、送り続けることができるのである。

ななまがりコントグラフィー


執筆者プロフィール
文筆業。東京生まれ。
主な著書に『今日もひとり、ディズニーランドで』、『ふざける力』、『夜の墓場で反省会』、『ヤバイ鳥』などがある。
YouTubeでネタ動画ばかりを視聴して毎日を過ごしています。

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