「シモキタブラボー! 」こがけんの元相方
下北沢歴23年芸人ピストジャム初連載

シモキタブラボー!

「世界で2番目にクールな街・下北沢」で23年、暮らしてきたサブカル芸人ピストジャムが綴るルポエッセイ。この街を舞台にした笑いあり涙ありのシモキタ賛歌を毎週、お届けします。

「世界で2番目にクールな街・下北沢」で23年、暮らしてきたサブカル芸人ピストジャムが綴るルポエッセイ。この街を舞台にした笑いあり涙ありのシモキタ賛歌を毎週、お届けします。

出典: FANY マガジン
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イラスト:ピストジャム

#01「こがけんの元相方」

「昨日のPCR検査の結果ですが、陽性でした」

電話口の声は、申し訳なさそうに言った。保健所からの電話だった。昨日から熱もせきも出ているし、そうかもしれないなとは思っていた。

それより朝からこんな電話をかけるのは、この人も嫌だっただろう。こんな電話を一日に何件もかけるなんて、とても気が重い仕事だ。こちらのほうが申し訳ない気持ちになった。

療養先のホテルには明後日から行ってもらうことになるので、今日明日は自宅待機するようにと言われた。電話を切る際に「保健所のかたも大変だと思いますけど、頑張ってください」と伝えたら、「そんなこと言っていただけるなんて……」と声を詰まらせていた。

電話を切ると、気が抜けたのか急に体が重くなった。熱もせきもひどくなっている。起きていられない。自分の体の中にコロナウイルスがいる。自分自身がバイ菌になったよう気がして悲しくなった。

夜になると、さらに熱が上がった。体を起こすのはつらかったが、どうしても今晩の「M-1グランプリ」は見ておきたい。毛布にくるまり、着ていたパーカーのフードも頭からかぶって、朦朧としながらテレビを眺めていた。

おいでやすこがとして出場した、元相方のこがけんが準優勝した。テレビの中で光輝くこがけんの姿は、まぶしすぎて直視できなかった。

番組が終わってテレビを消すと、真っ暗になったテレビ画面に、毛布にくるまってせきこむ自分の姿が映っていた。情けなさすぎて笑えてきた。人生に底があるなら、ここだろ。

出典: FANY マガジン
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イラスト:ピストジャム

思えば、こがけんはいつも僕の先にいた。大学で出会ったころからずっとそうだった。

最寄りの駅は同じだったが、僕は学生寮みたいなところ。一方のこがけんはひとり暮らしだった。広さは僕の部屋の倍以上あったし、CDも倍以上持っていた。時計も僕はG-SHOCKだったが、こがけんはOMEGAだった。僕は携帯電話も持っていなかったのに、こがけんは携帯どころか初代のiMacも持っていた。一緒に入った音楽サークルも、僕はすぐに辞めることになったが、こがけんはのちにそのサークルの代表にまでなった。3年になって校舎の場所が変わったので、おたがい転居することになった。こがけんは下北沢に引っ越したのだが、僕は下北沢に住みたかったのに予算が足りなく、梅ヶ丘という下北沢から2駅離れた駅で妥協した。

こがけんに連れていってもらった下北沢の『とん水』という定食屋はいまでも通っている。音楽のライブも誘われてよく行った。西麻布の『YELLOW』というクラブに、デ・ラ・ソウルがシークレットゲストで出ると教えられて観にいったり、恵比寿のガーデンホールにファットボーイ・スリムのDJを聴きにいったり、台風直撃になった第1回目のフジロックも、二人ともずぶ濡れになりながらトリのレッド・ホット・チリ・ペッパーズまで観て、泥だらけの状態で凍えながら電車で帰ったりした。こがけんから教えてもらったG.ラブ&スペシャル・ソースの『Year, It’s That Easy』というアルバムと、The Wiseguysの『THE ANTIDOTE』というアルバムは、気に入って自分でもCDを買い、いまでも聴いている。

こがけんをお笑いの世界に誘ったのは僕だ。こがけんは大学でも人気者だったし、一番仲がよかったので、一緒にやるならこがけんしかいないと思って声をかけた。こがけんは、就職も決まっていたのに、それを捨てて芸人になることを決めてくれた。

NSCを卒業して、順調にいっていたと思ったが、こがけんが芸人を辞めることになり、最初の解散をした。僕は、それからピンで活動したり、コンビを組んでは解散したり、芸人を続けていた。

気づけばもう30歳になろうとしていたとき、大学の同級生から、結婚式でこがけんと司会をしてほしいと頼まれた。久しぶりに顔を合わせたこがけんは、やっぱりおもしろかった。そして、また僕から、もう一度一緒にやろうと誘って、再びコンビを組むことになった。

下北沢のミスタードーナツが、僕らのネタ合わせ場所だった。僕は毎回、おかわり自由のホットコーヒー。こがけんは、山ぶどうスカッシュ。ときたま、こがけんはホットミルクを頼む。それは、彼の体調がすぐれないときの合図だ。学生のころから変わらない。週に3日、19時から集まった。ネタがまとまらないときは、閉店の25時までいることもしばしばだった。ライブ前なんかは、店を追い出されたあとも道端で話し合ったり、路地裏で稽古したりもした。二人とも朝からバイトしていたので、本当にへとへとだった。それから4年間頑張ったが、いつしかすれ違いが増え、また解散することになった。

おいでやすこがは、テレビで見ない日がないくらい売れた。僕は、コロナ禍で劇場が閉鎖され、舞台もなく、ただバイトをしてすごす日々が続いた。

そんなある日、先輩の山本吉貴さんからラジオの仕事をいただいた。狛江市のコミュニティFMで、月に2回25分の生放送番組だった。『山本吉貴のクリスマスラジオ』という、山本さんらしいふざけたタイトルだった。僕の仕事はアシスタントで、番組に届いたお便りを読んだり、毎回エンディングにかけるクリスマスソングを選曲したりすることになった。

芸歴20年目になるにもかかわらず、こがけんの元相方としてしか人に紹介されない僕のような芸人に仕事を振ってくれた山本さんには、何とお礼を言えばいいのか感謝の言葉もない。そう感じ入っていたら、山本さんに「このラジオの枠、前はおいでやすこががやっててん」と言われた。

こがけんは、相変わらずいつも僕の先にいる。


出典: FANY マガジン
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ピストジャム
1978年9月10日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学を卒業後、芸人を志す。NSC東京校に7期生として入学し、2002年4月にデビュー、こがけんと組んだコンビ「マスターピース」「ワンドロップ」など、いくつかのコンビで結成と解散を繰り返し、現在はピン芸人として活動する。カレーや自転車のほか、音楽、映画、読書、アートなどカルチャー全般が趣味。下北沢に23年、住み続けている。

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