沖縄出身のピン芸人、宮川たま子が芸歴20年を迎え、2月20日(日)に大阪で単独ライブを開催します。題して『お世話になった方々と作るライブ ぶったま子 in Osaka』。師匠である宮川大助との2ショットトークあり、尊敬する先輩のガレッジセール・川田との初コントありと、20周年の名にふさわしい濃密な内容になっています。そこで今回は、ご本人にその“波乱万丈”な20年の芸人人生を振り返ってもらいつつ、単独ライブへの意気込みを語ってもらいました!
沖縄出身らしい顔だちにツインテールという愛らしいビジュアルが特徴の宮川たま子。宮川大助・花子の弟子からスタートして、沖縄国際映画祭の宣伝芸人など地元・沖縄にかかわる活動をしてきた彼女が、2021年に芸歴20周年を迎えました。
それを記念して、昨年11月に東京で開催された単独ライブは、ガレッジセール・ゴリとのコントやスペシャルゲストの具志堅用高とのトークなど“沖縄色”豊かな内容で大盛況。今回の大阪ライブは、その第2弾となります。
弟子生活の思い出は“畑”!?
――沖縄出身のたま子さんが大阪のNSC(吉本総合芸能学院)に入ろうと思ったきっかけから教えてください。
吉本新喜劇は、沖縄でもテレビでやっていて憧れていたんですよね。それで、「笑いの殿堂といったら大阪だろう」と思ってNSCに入学しました。NSCには「漫才コース」「新喜劇コース」があって、私は新喜劇を選びました。でも、卒業後に新喜劇のオーディションを受けても落ちてばかりで……。それでまずは舞台の裏方をやろうと、なんばグランド花月で半年ぐらい舞台の手伝いをやっていたんです。
そのときに、宮川大助・花子師匠のイベントがあって、大助師匠が私を見つけてくれて。「なんか沖縄っぽい子がいるで~。花子、拾ってあげてくれ」と。その一言で拾われました。
――運命的な話ですね。
そうなんです。それで付き人から弟子になりました。宮川家では、最後の住み込みの弟子です。住み込みは2年、その後も弟子として師匠のところについていたので、トータルで4~5年はお世話になりました。
――住み込み!? どんな生活だったんですか?
朝5時から8時ぐらいまで、大助師匠の趣味である畑仕事をやって、そこから朝食。その後に舞台の出演や営業などに行くという毎日でした。弟子を終えるときに「教えることはすべて教えた」と言われましたが、教えてもらったのは主に畑のことだったような気がします(笑)。畝と畝の間を空けるとか、この野菜は病気になりやすいとか(笑)。めっちゃ、畑ばっかりやってましたね。あとは、大助師匠とよくマラソンをしていました。気がついたら7時間くらい走っていたこともあります(笑)。
――沖縄から出てきて大阪で弟子になるというのは、いろいろな意味でカルチャーショックが大きかったのでは?
大阪の人はしゃべりが速いし、ボケとツッコミ文化が普通に根付いている。歩くスピードも速いし、人もいっぱいいるしで、最初はどこに行っても怖かったです。付き人のときも、師匠にいつも怒られていました。たとえば、沖縄では「〇〇しましょうね」というように、丁寧にしゃべっていても言葉の最後に、普通に「ね」をつけるんです。それを「なんで上からやねん!」と怒られたり、そういう部分はすごく直されましたね。あと「オチがなかったら、しゃべったらあかんで」とずっと言われてました。10年ぐらいかけて、やっと慣れていった気がします。
弟子のなかでも、かなり怒られた弟子だったんじゃないでしょうか。謹慎も何度かありますし。謹慎になると、そのたびに沖縄に帰って、謹慎を解かれて大阪に戻るときにシーサーを師匠にお渡ししていたんですが、気が付いたら、師匠の家がシーサーでいっぱいになってました(笑)。
運命を変えた東京での出会い
――弟子を終えてから、すぐに東京に行ったんですか?
いや、師匠のもとを離れてから、自分で仕事を見つけなくてはいけないという時代があって。それが、けっこう大変でした。テレビの募集欄を見て応募して、いくつかの番組に出させてもらったり、その後、東京に行くまでの間に1年間、沖縄に戻ってバスガイドをしていたりも(笑)。
――突然のバスガイド! それはどういう経緯だったんですか?
師匠に「東京に行きます」と言ったら1年謹慎になりまして。どうしようかなと考えたんですが、大阪に出てきたとき、いろいろな人に沖縄のことを聞かれてもぜんぜん答えられなかったことを思い出したんです。(名産品やお土産の)海ブドウも紅芋タルトも、それまで食べたことがなかった。これじゃダメだなと思って、せっかく1年あるなら、知識が身につくバスガイドをやろうと考えついたんです。これがめちゃくちゃ面白かった(笑)。そして1年たったら花子師匠が沖縄に迎えに来てくれて。「東京に行きたいのは変わってないです」と伝えたら、今度は「それなら行ってこい」と言ってもらえました。
――壁にぶつかっても、へこたれない強さがありますね。
そうかもしれません。1年謹慎と言われたときには「え! 1年も!?」となりましたが、次の日から「せっかく1年あるなら何をしよう」と切り替えていました。それは、自分のなかで意識的にそうするよう決めているんです。そうじゃないと、気持ちもやる気も持続しないので。
――そして、いよいよ東京に行ったんですね。仕事は順調でしたか?
いえいえ、東京に行ったはいいけど、仕事がなさすぎて……。それが、たまたま吉本本社に行ったとき、当時の大﨑(洋)社長が通りかかって、「沖縄風の子やな」と声をかけてくださったんです。それで「そうなんです。沖縄なんです! いろいろ知ってます!」と返したら話が弾んで。もちろん社長というのは知っていましたけど、特に何も考えていなかったんですよ。でも、この出会いで人生が変わりましたね。東京に行ったタイミングと、大﨑さんとの出会いがちょうどいい感じで重なりました。
それから沖縄国際映画祭の宣伝芸人として、映画祭を地域でもっと広めるために、1年間かけて沖縄県の41の市町村長さんへの表敬訪問をやらせてもらったんですが、これをきっかけにいろいろなつながりもできたし、何より、自分のふるさとである沖縄に関わる活動ができたのがすごくうれしかった。その後、沖縄に(吉本の)劇場ができたり、おばけ屋敷(沖縄おもろおばけ屋敷)ができたり、沖縄新喜劇に出させてもらったりして、舞台への出演が多くなりました。
「20年間、芸人やっていたよかった!」
――昨年11月に開かれた東京の単独ライブを経て、今回の大阪のライブは、どのような内容になるんでしょう?
今回は大助師匠が出てくださるんです! これまで、大助・花子師匠のイベントに私が出してもらうことはありました。でも、自分の名前を冠したライブに師匠に出ていただくというのは初めてなので、すごく楽しみです。大助師匠には昨年、お願いしたんですが、それ以来、ずっと緊張していると言っていました(笑)。本当は花子師匠にも出ていただけたらよかったんですが、いま、花子師匠は(病気療養から復帰したばかりで)車いすなので、今回の会場だと難しくて……。残念ですが、いつかおふたりそろって出演していただくという次の目標ができたと思っています。
――東京でのライブには、ガレッジセールのゴリさんが出ましたが、大阪では川田さんが出るそうですね。
そうなんです。やっぱり沖縄出身の私にとって、ガレッジセールさんは憧れの芸人なんですよね。ガレッジセールさんの番組を夜中に見ていましたし。そんな憧れのゴリさん、川田さんに出演してもらえるのは、私にとってすごいこと。「20年間、芸人をやっていてよかったな」と思った瞬間でした(笑)。
――芸歴が20年を超えたわけですが、この先の目標は?
じつは東京に出てきてから、ずっと「俳優」部門にいたんですが、昨年4月から「芸人」部門に移ったんです。芸人から俳優部門に移る人はいるんですけれど、私のパターンは珍しくて。これを機に、面白いことを見つけて、自分で表現できるものをどんどん作っていきたいと思っています。
40歳を超えましたが、若手と同じような気持ちでどんどんチャレンジしたい。だからM-1グランプリ2021で、50歳で優勝した錦鯉さんはすごく励みになりました。成功をつかむ方は、みんなチャレンジしているなってしみじみ思います。
――最後に、ふるさとである沖縄への思いを聞かせてください。
沖縄から出てくる芸人は多くなってきましたが、女芸人は少ないですね。いることはいるんですけれど、まだ「道」ができていないかなという気がしていて。沖縄で頑張っている子たちもたくさんいるので、自分も含めて、みんなが東京で頑張れる場所を作れればいいなと思います。
振り返ると、大阪時代も「県人会」の人たちにすごく応援してもらいました。単独ライブもいつも大勢で来てくれて、本当にありがたかったです。そして、いまでも応援してくれているんです。
本当に沖縄って、つながり、絆、結束力がすごい。私の中にもやっぱりあるのは、「ウチナー魂」。沖縄が大好きだし、いつでも戻れる場所として自分のなかに「沖縄」があるから、東京や大阪で芸人を続けてくることができました。これからも、ふるさとである沖縄の子たちと一緒に頑張っていきたいと思います!
公演概要
芸歴20周年単独ライブ『ぶったま子』
日時:2月20日(日) 開場12:45 開演13:00
場所:道頓堀ZAZA HOUSE
チケット:前売3,000円 当日3,500円
ゲスト:宮川大助、川田広樹(ガレッジセール)ほか
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