ピストジャム初連載「シモキタブラボー! 」
「〇か×」とある中古CD屋の店主の話

シモキタブラボー!

「世界で2番目にクールな街・下北沢」で23年、暮らしてきたサブカル芸人ピストジャムが綴るルポエッセイ。この街を舞台にした笑いあり涙ありのシモキタ賛歌を毎週、お届けします。

「世界で2番目にクールな街・下北沢」で23年、暮らしてきたサブカル芸人ピストジャムが綴るルポエッセイ。この街を舞台にした笑いあり涙ありのシモキタ賛歌を毎週、お届けします。

出典: FANY マガジン
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イラスト:ピストジャム

#08「〇か×」

下北沢で一番通っている店は、断トツでヴィレッジヴァンガードだ。店内のあちらこちらで、ロックやパンク、はやりの曲や店員さんのおすすめの曲などが鳴り響き、圧倒的な量の本や雑貨がごちゃごちゃと陳列されている様子は、いつ行っても楽しい気分にさせてくれる。

奥まで入っていくと、出入り口がどこだったかわからなくなることなんて、いまでもざらだ。まるで本と雑貨のジャングルに迷い込んでしまったかのようだ。あれだけ商品があるのに、結構まめに棚を移動させたりレイアウトを変えたりするので、店員さんはたいへんだろうなと思いつつ、いやいや、これは本当に迷わそうとしているんじゃないのかと思うこともしばしばある。でも、そこがまた楽しい。

僕のお決まりのコースは、まず文芸書のコーナーをのぞいて話題の本をチェックして、その次は店の右奥あたりを目指して進む。だいたいそのあたりにはアウトローな世界の本が集められていて、危ないニオイがするルポルタージュや写真集など、買う勇気はないけれどちょっと読んでみたいと思わせる本がたくさん置いてある。そして最後に、音楽コーナーに行く。CDやバンドグッズに追いやられて、隅っこにちょこんと置かれたいくつかの音楽雑誌を立ち読みし、気になったCDを試聴して帰る。

 ヴィレッジヴァンガードで初めてピース又吉さんの本を見つけたときは、「うおお!」とうなった。せきしろさんとの共著『カキフライが無いなら来なかった』が、店員さんの手書きのポップで激押しされていた。当時、又吉さんはヴィレッジヴァンガードの上のマンションに住んでいた。自分の本が、住んでいるマンションの1階で売られているなんて、どんな気分なんだろう。めちゃくちゃかっこいいやん。

 ピースさんがキングオブコントで準優勝した日の夜中、同期のオリオンリーグ剛くんと閉店したヴィレッジヴァンガードの前で、階段に腰かけながら「ピースさんのネタ最高やったな。めっちゃおもしろかったな」と興奮冷めやらないテンションで話していた。すると、ちょうど又吉さんが帰ってきた。僕は立ち上がって「おめでとうございます! 感動しました!」と挨拶した。又吉さんは「ありがとう。ジュースでも飲むか?」と言ってくれた。僕たちは缶コーヒーを買っていたので「大丈夫です」と遠慮すると、「ほな、またな」とふだんと何も変わらないテンションで帰っていった。あんな大仕事をやってのけた直後なのに、又吉さんはいつもと何一つ変わらない様子だった。ほんまに、かっこよすぎる。

高校時代に一番通い詰めた店は、大阪の天王寺駅のはずれにあった『○か✕』という中古CD屋だった。通学路の途中にあったので、学校帰りに毎日のように寄っていた。店主ひとりだけの小さな店だったのだが、ほかでは見かけないハードコア・パンクのCDやノイズバンドのCDなど、マニアックな品がそろっていて僕を飽きさせることはなかった。

 店主の見た目は強烈だった。髪はきれいなストレートで胸もとまであり、太い口ひげをたくわえ、いつもテンガロンハットをかぶっていた。がたいも大きく、どう見てもハルク・ホーガンがレジに立っているようにしか見えなかった。

出典: FANY マガジン
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イラスト:ピストジャム

店主の名は林直人さんといい、そのいかつい見た目とは裏腹にとても優しい人だった。林さんは17歳のときに、のちに町田康として芥川賞受賞作家となる町田町蔵さんと『INU』というバンドを結成し、INU脱退後は『AUSHWITZ』(アウシュヴィッツ)というバンドのギターボーカルとして活動していた。僕が林さんと出会ったのはちょうどAUSHWITZを解散したころで、当時は林さんが関西のパンクシーンの有名人だとはまったく知らなかった。

 僕は、高校の卒業記念でクラスメイトとバンドをやることになった。誘われたのはいいが、何も楽器ができないのでパートはボーカルだった。『○か✕』の近くの『不思議の国のアリス』というライブハウスを借りて、仲間内でライブをすることになったと林さんに伝えると、当日こっそり見に来てくれていた。『LAUGHIN’ NOSE』というバンドのボーカルのチャーミーの若いころを見ているみたいでおもしろかったと言ってくれた。

 東京の大学に進学することを伝えたときは、「落ち着いたら手紙ちょうだい」と言って、住所と電話番号を書いたメモを渡してくれた。東京に引っ越してから一度だけ林さんの家に電話したことがあった。

林さんは不在で、息子さんが電話に出た。林さんから折り返しの電話があったとき、息子さんがまだ10歳だと聞いて、「すごくしっかりした息子さんですね。10歳とは思えない丁寧な受け答えで、僕も敬語で話してしまいました」と伝えると、林さんはうれしそうに「息子を大人として扱ってくれてありがとう。そういう経験が彼のためになるから、敬語で話してくれたことに感謝します」と言った。

2001年、大学卒業間近に林さんから電話があった。「新しく組んだバンドのライブが来月東京であるから久しぶりに会おう」と言われた。バンドの名前は『abm』。トリプルギターのノイズユニットらしい。トリプルギターのノイズユニットなんて、聞いたことがない。林さんは、『abm NOISE FOREST 2001』という、バンドのCDとビデオテープがセットになったものまで送ってくれた。

バンド名のabmとは、anti-ballistic missileの略で、弾道弾迎撃ミサイルという欧米諸国を中心に配備されているミサイル防衛手段の一つ、とのことだった。アウシュヴィッツの次のバンドが、弾道弾迎撃ミサイルって。林さんは、とことん林さんだ。

ライブは、高円寺の『GEAR』というライブハウスでおこなわれた。その日のライブには林さんに縁のあるミュージシャンが参加していた。林さんが立ち上げたアルケミーレコードという、国内に現存する最古のインディーズレーベル所属の『INCAPACITANTS』という2人組のノイズユニットも出演した。お客さんの半分は外国人で驚いたが、ノイズというジャンルの音楽の前では人種や国境なんて関係ない。

abmのライブは凄まじかった。耳をつんざくむき出しの音は、露出した僕の顔や腕の皮膚をこれでもかと震わせた。ぶつかった音の塊は、砕けて薄い膜のようにかたちを変え、体にまとわりついた。轟音は容赦なく次々と押し寄せ、まとわりついた音の膜は剥がれ落ちることなく、何層も何層も僕の体の上に重なっていった。

何をどうしたら、こんなにも不快な大きな音が出せるんだ。体を動かそうとするが、重くて動かない。

これ台風やん。この、風が強すぎて前に進まれへん感じ。ああ、そうか。なるほどね。あれ。目に見えてる映像と、頭に見えてる映像が違うねんけど。いま、全然違うこと考えてた。

ほんで、あれ? 俺、思いっきり体動かせてるやん。知らん外国人と笑いながら体ぶつけ合ってるの、俺やん。

皮膚から体内に、一斉に音が染み込んできた。体は音に侵食されて、居場所を失った僕の意識は、どこかへ飛んでいってしまったらしい。

ステージから発射された音のミサイルは、僕たちに降り注ぐさまざまな問題や鬱々とした気持ちを見事に迎撃し、フロア全体を大きなバリアで包み込んだ。そして、僕たちは膨張と収縮を繰り返すアメーバーのような一つの塊になった。

演奏が終わった。一瞬の静寂ののち、フロアは笑顔と歓声と拍手であふれ、また一つに包まれた。

ライブ後、打ち上げに呼んでもらい林さんと飲んだ。別れ際、これからNSCに通って吉本の芸人になるつもりだと伝えた。林さんは、「じゃ今度は僕がライブ見に行くわ」と言ってくれた。

林さんと会ったのは、これが最後だった。林さんはこの2年後、咽頭癌で亡くなった。僕が林さんの死を知ったのは、いつものヴィレッジヴァンガードの音楽コーナーだった。立ち読みしていた雑誌に、林さんが闘病の末に亡くなったことが記されていた。享年42歳だった。

いつの間にか、林さんが亡くなった年齢よりも歳をとってしまっていた。43歳なのに、売れてなくて、バイトしてて。全然かっこいい大人になれていない。

林さんと飲んだ夜、「abmって本当はアホ、バカ、マヌケの略なんじゃないですか?」と言ったら、林さんは「それいいね」と笑ってくれた。 次飲むときは、もっと笑わせられたらいいな。


出典: FANY マガジン
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ピストジャム
1978年9月10日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学を卒業後、芸人を志す。NSC東京校に7期生として入学し、2002年4月にデビュー、こがけんと組んだコンビ「マスターピース」「ワンドロップ」など、いくつかのコンビで結成と解散を繰り返し、現在はピン芸人として活動する。カレーや自転車のほか、音楽、映画、読書、アートなどカルチャー全般が趣味。下北沢に23年、住み続けている。

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