かりそめの姿
下北沢のピザ屋で8年バイトした。そんなに長く働けた理由は、居心地がよかったからにほかならない。シモキタという土地柄だろう。夢を持った人がたくさんいた。
人によってバイトする期間は違う。数か月で辞める人もいれば、僕よりも長く働いている人もいた。辞める人、新しく入ってくる人、絶えず入れ替わりがあるにもかかわらず、そのピザ屋にはつねにバンドマンや役者、芸人が集まってきた。
ピークのときなんか、シンガーソングライター1名、バンドマン4名、役者3名、芸人4名。ほかにもタレントの卵や、作家志望で小説を書いているという人もいた。
バイトは全員で20名ほどなので、半数以上が夢追い人だった。「最近こんな曲を作った」とか「今度どこそこで芝居をする」とか「このネタどう思う?」とか「どんな小説書いているの?」とか、そんな会話が日常だった。休憩時間になると、バックヤードで芝居の台本を覚えている役者がいたり、ノートを開いてネタを考えている芸人がいたり。
こんな職場は全国探してもなかなかないだろう。さすがシモキタだ。
僕は、積極的にバイト仲間が出演するライブや芝居に足を運んだ。それは、特異な体験だった。
そこには、僕が知るバイト仲間の姿はなかった。みな別人だった。「バイトはかりそめの姿で、俺がいるべき場所はここなんだ」と言わんばかりに、みな輝いていた。
後藤さんは、岐阜から上京してきたシンガーソングライターだった。やさしい目をした純朴な人で、俗っぽさやぎらぎらした感じは一切なかった。たまに寝癖をつけたままバイト先に出勤してくることがあったのだが、そんなところも後藤さんらしくてかわいいなと思えた。
後藤真一郎という名で活動していて、ギター一本かついで都内のライブバーを巡っているという。バイトのときの後藤さんはシャイで控えめなのに、やっていることはまるで流浪の侍のようだ。かっこいい。
僕は、後藤さんが作る曲が好きだ。自主制作したというアルバムも買った。
アコースティックギターの澄んだ音色に、やさしくあたたかみのある歌声が心に沁みる。シモキタのBLUE MOONというカフェバーでのライブでは、涙を流しながら聴いているお客さんもいた。
僕のお気に入りは『高架下で唄えば』という曲で、先に挙げたようなしっとりとした曲とはまた違う。胸をぞくぞくさせるようなギターのリフから始まり、中盤からブルースハープがくわわるアップテンポな曲だ。街に一陣の風が吹き抜け、今夜この街で新しい物語が生まれる。そんな情景が浮かんできて、なんだか心が弾む。
後藤さんに、この曲が好きだと伝えると「これシモキタの南口の高架下で作った曲なんですよ」と言われた。それを聞いて、「俺どんだけシモキタ好きやねん」と気恥ずかしくなった。
大下さんはバンドマンだった。赤丸という4人組のロックバンドのギターボーカルで、広島から上京してきていた。
長髪で、echoというオレンジ色の安たばこをいつもまずそうに吸っていた。おとなしくもの静かな人で、体の線も細く、顔色もつねに悪かった。ロックバンドをやっていると初めて聞いたときには、「嘘つけ」と思わずツッコミそうになったほどだ。
でも、大下さんには、何か秘めた狂気というか、眼の奥に鋭さを感じていた。ときおり自暴自棄に陥りそうな危うさが垣間見えるところや、彼の華奢な体躯を見ると、そういうミステリアスな雰囲気は魅力的だなと思った。
赤丸は、ツアーをしたり、アルバムを出したり、精力的に活動していた。実際、タワーレコードにもCDが置いてあったし、テレビで曲が流れたり、音楽番組にも出たりしていた。
赤丸のドラマーの吉田さんも、数か月だけだったが、大下さんの紹介でそのピザ屋に入ってきてバイトしていた。吉田さんは快活な人で、大下さんとは対照的な性格で驚いた。あまりに違うタイプなので、僕は勝手に「この二人は東京に来てから知り合ったんだろう」と思っていた。しかし、二人は高校の同級生で、そのころからバンドを組んでいたと聞いて、さらに驚いた。
シモキタのSHELTERというライブハウスで見た赤丸のライブは、いまも目に焼きついている。大下さんは、何かが憑依したかのようだった。体を小刻みに震わせ、かっと眼を開き、その眼の奥に秘めた狂気を解放するように歌っていた。
バンドマンや役者以外にも、夢を持ってバイトしていた人もいた。北海道から上京した松田さんは、そんなひとりだった。
おしゃれで軽やかな人で、僕は密かに憧れていた。イカした自転車で颯爽と出勤してきて、パーカーの上からピザ屋の制服のジャケットを羽織り、フードを出して働いていた。あのダサい制服をかっこよく着こなすなんて。
休憩時間になると、必ずイヤホンをしてラップを聴いている姿も、さまになっていた。餓鬼レンジャーというヒップホップユニットのMC、ポチョムキンさんが好きらしく、僕も影響を受けてかなりのポチョムキン好きになった。
当時、松田さんは表参道のカフェでもバイトしていて、そちらの仕事が忙しくなったようで、ピザ屋は辞めることになった。松田さんは、別れ際に「これからも芸人頑張ってくださいね」と言ってくれた。僕も「早くテレビに出られるように頑張ります」と答えて別れた。それから、しばらく会わない時期が続いたが、再会は数年後に意外なかたちで訪れた。
家でテレビを観ていると、尼神インターの誠子が代官山のフルーツサンド屋の店長に告白するという番組がやっていた。代官山のフルーツサンド屋の店長って、ずいぶんおしゃれな肩書きやな。どんな人がやってんねんやろ。身を乗り出して食い入るようにテレビを観ていたら、登場してきた男性は松田さんだった。
思わず「松田さんやん!」と声が出た。そして、気づいたら「俺よりテレビ出てるやん!」とツッコんでいた。久しぶりに見た松田さんは、相変わらずかっこよかった。
ふり返ると、あのピザ屋でバイトしていた瞬間は、どこを切り取っても青春映画のワンシーンのような光景だったなと思う。開店前の朝9時に、小説家の卵と一緒にピザ生地を仕込んだり、桜の季節には花見会場にバイク2台でピザを届けに行って、「昼間から花見なんてうらやましいな、こっちはバイトだよ」なんて言いながら帰ったり、開店したら店の横にある配達バイクの駐輪場でみんなが大騒ぎしているから見に行くと、どう考えても犬のものとは思えないサイズ感のうんこが落ちていて、きゃっきゃっ言いながら片づけたり。
本当に愉快な仲間たちが集まった楽しいバイト先だった。「青春映画のワンシーンのような光景だった」と書いたが、僕がこのピザ屋を辞めたのは4年前なので、これは31歳から39歳までの話だ。どこが青春映画やねん。
後藤さんは、いまも後藤真一郎として都内のライブバーを中心に活動している。大下さんは、赤丸を解散したのち、新しくバンドを組んだが、そのバンドは脱退して、いまは就職して働いている。松田さんは、昨年シモキタにスナック一房という店をオープンさせた。
ピストジャム
1978年9月10日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学を卒業後、芸人を志す。NSC東京校に7期生として入学し、2002年4月にデビュー、こがけんと組んだコンビ「マスターピース」「ワンドロップ」など、いくつかのコンビで結成と解散を繰り返し、現在はピン芸人として活動する。カレーや自転車のほか、音楽、映画、読書、アートなどカルチャー全般が趣味。下北沢に23年、住み続けている。
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