「人生の最期に走馬灯で
このネタがよぎりますようにマジで」
#7 相席スタート『付き合って半年』

人生の最期に走馬灯でこのネタがよぎりますようにマジで

極私的に理屈抜きで好きなコントや漫才たちを、あえて「どうして自分はこのネタが好きなのだろうか」とああだこうだ理屈をつけながら考えて、勝手に納得していく連載です。

極私的に理屈抜きで好きなコントや漫才たちを、あえて「どうして自分はこのネタが好きなのだろうか」とああだこうだ理屈をつけながら考えて、勝手に納得していく連載です。

出典: FANY マガジン

「人生の最期に走馬灯でこのネタがよぎりますようにマジで」
文:ワクサカソウヘイ(文筆業)

極私的に理屈抜きで好きなコントや漫才たちを、あえて「どうして自分はこのネタが好きなのだろうか」とああだこうだ理屈をつけながら考えて、勝手に納得していく連載です。第七回目は相席スタートのコント『付き合って半年』の中で描かれる恋愛模様のリアリティについて、考えます。

#7
相席スタート『付き合って半年』

出典: 相席YouTube

先日、実家の部屋の整理をしていたら、勉強机の奥から古いノートが出てきた。高校二年生の時に毎晩したためていた日記である。あの頃の自分はなにを青春の日々の中で考えていたのだろう。ノスタルジックな想いに駆られて表紙を開いた。
そしたら、すみやかに赤面した。
「今日は(片想いの相手である)〇〇さんと下駄箱の前ですれ違った。ラッキー!」
「今日は〇〇さんがバスケ部の男子たちと仲良く廊下で喋っていた。ムカつく」
「今日は〇〇さんのことを考えているだけで胸が詰まり、食べ物がのどを通らなかった」
「今日は〇〇さんの姿が見えなかった。欠席していたっぽい。病気だろうか、心配だ」
病気なのはお前のほうだろう、と呆れるほどに、そこには片想いの相手に情緒をかき乱されている十七歳の胸の模様だけが記されていた。恋心に身を焦がすばかりに食べ物がのどを通らないなんて、一体どこのプリンセスの寝言なんだ、といった感じである。
意中の相手の姿を頭に浮かべてはため息をこぼし、恋愛映画をひとりで鑑賞しては主人公の報われない恋情に共感し、恋愛についての詩集を書店で立ち読みしては「ここには自分へのメッセージが書かれている……」と感動し。日記の中の十七歳の自分は、日に日に恋心を高みへと募らせていた。
やがて夏休み、そこでいよいよカタルシスが訪れる。ついに自分は片想いの相手を呼び出して告白を実行、見事「付き合ってもいいよ」という返事をもらうのである。その日の日記には、まさに天にも昇るような心地である、といった感慨が強い筆圧でもって書かれていた。
ああ。
そこで耐えきれずに日記を閉じる。
なんという浮かれようであろうか。とてもではないが、見てられない。日記の中の自分は、まだ知らないのだ。このあと、その初めての恋人とは半年ほどで自然消滅の結末を迎えるのだということを。恋愛とは成就した瞬間こそがクライマックスで、あとは現実の冷めたトーンにただただ下っていくだけなのだということを。
私は十七歳の時の自分に伝えたい。
いま、お前が鑑賞するべきは主人公の男が叶わぬ恋に右往左往する映画ではない。いま、お前が読むべきは子犬のイラストが添えられた「この切ない想い、いつかきっと届くよ」などという毒にも薬にもならないポエムではない。
いま、お前に必要なのは、相席スタートのコント『付き合って半年』を視聴して、恋愛のリアリティの側面を学ぶこと。それのみである。

相席スタートが描く恋愛の機微

映画、小説、TVドラマ。恋愛を題材とした作品は古今東西に溢れているわけだが、相席スタートがコント『付き合って半年』の中で描く物語の中には、他では味わうことのできない恋愛模様の深いニュアンスが詰まっている。
登場人物は、タイトル通り、付き合って半年経つ男女のカップルである。
「まだー?」
リビングでソファに座っている男が、向こうの部屋にいる女に声をかける。
「ちょっと待ってー」
どうやらふたりはこれから映画デートをする予定らしい。女の外出準備が整うのを待ちながら、男はスマホで映画の上映開始時刻を再確認する。
「あ、映画十六時からかと思ったけど、十六時半からやわ。全然間に合うわー」
しかし、身支度に集中しているのか、女からの返事はない。
「ユリ、聞いてるー?」
すこし間があったのち、女がぬっとリビングに現れる。
「……いま、ユリって言ったよね?」
「……やっば」
こうしてカップルの悲劇が始まる。そう、男は前に付き合っていた恋人の名前を、うかつにも発してしまったのである。
「あたし、トモミですけど……? やっぱり、まだユリさんのこと忘れられてないんだ!」
女はじっとりと、男を詰めていく。
「どうせ、あたしに内緒で、まだ(元カノと)連絡取ってるんでしょ?」
「取ってへんよ!」
男は力強く断言する。
「じゃあ、携帯見ても平気?」
男は堂々と「じゃあ見たらいいよ、それで安心するなら」とスマホを差し出す。
そして女は履歴を確認する。これで男の身の潔白が証明されるのかと思いきや、そこにははっきりと、元カノとのやり取りの記録が残っていた。
「……連絡、取ってんじゃねーか!」
男はうなだれる。
「え? なんで携帯を見ていいって言ったの?」
「……自信満々に言ったら、見ないと思った」
こうして悲劇は加速していく。さらに女が詰めていくと、男と元カノはつい最近も密会し、さらには情事にも至っていたという事実まで明るみになってしまう。
女は怒りの滲んだトーンで、こう呟く。
「最低だね、マジで……」
ここで男が返すセリフが、実に秀逸である。
「ほんまに、謝りたい……。こんなことで、オレたちが作ってきた思い出たちを、バラバラにさせてしまう、そんな最低な真似したことを、謝りたい……」
謝罪のように見せかけて、謝罪ではない。ただただ「謝りたい」という旨を伝えているだけである。このまどろっこしいセリフに、女は思わず「謝れよ」と漏らす。そりゃそうだ、「謝りたい」と言っているのであれば、素直に謝ればいい。
しかし、男は頑として「謝りたい」「詫びたい」「不甲斐ない彼氏であったということを伝えたい」と、謝罪を寸止めする。なぜなら、「ごめんなさい」と一言でもこぼしてしまえば、恋愛の魔法はすべて溶けてしまうからだ。あとに残るのは、現実の焼け野原だけ。
だから男は、なんとかして具体的な謝罪を回避する。恋愛というファンタジーを強引に引き延ばすため、「謝りたい」という、現実をぼかすような文言に必死でこだわり続ける。
マジで男は最低なわけだが、しかしこのシーンにこそ、恋愛にまつわる複雑な機微が込められているのではないか。
「謝りたい」というセリフの曖昧さにこそ、クライマックスを過ぎた恋愛のリアルな質感が刻まれているのではないか。
そんなことを、私は思うのである。

シェイクスピアが語れなかったエピローグ

で、ここで話の引き合いに出したいのが『ロミオとジュリエット』である。

出典: シェイクスピア『ロミオとジュリエット』

世界的に有名なこのシェイクスピアによる物語の中で、ロミオとジュリエットは数々の障壁を乗り越えながら、恋愛を紡いでいく。
しかしある事件をきっかけにして、ふたりの仲は無情にも引き裂かれてしまう。そこでジュリエットは、服毒することで自らを仮死状態へと追いやる。葬儀が済んだあと、こっそりと蘇生し、ロミオと駆け落ちするという計画を企てたのである。
ところが連絡ミスによって、ロミオにはこの青写真がきちんと伝わっていなかった。こうしてロミオはジュリエットの「死体」を見て絶望し、傍らにあった毒を飲んで自死の道を選んでしまう。そのタイミングで目覚めたジュリエットはすべてを悟り、短剣で自らの胸を突き刺し、ロミオの後を追う。そして、終幕。
私はこの『ロミオとジュリエット』の物語に触れるたび、こんな感慨をよぎらせる。
「そこまでして、恋愛を続けたいのか」
そう、ロミオとジュリエットは、毒やら短剣やらを持ち出してでも、恋愛を持続させたかったのである。現実に折り合いをつけるということを一切せずに、恋愛を永遠のものにしたかったのである。たとえそれが、死という選択であったとしても。
この「なんとしてでも恋愛を続けたい」というロミオとジュリエットの態度は、そのままコント『付き合って半年』における、浮気がバレてもなお「謝りたい」という呪文を唱えて現実を煙に巻こうとする男の姿にリンクしている。
どの時代においても、恋人たちはすでに虫の息となっている恋愛を、あの手この手で蘇生させようとするのだ。それは普遍的な悲劇の光景であり、そして喜劇の光景でもある。
もし『ロミオとジュリエット』のクライマックスが、死ではなく、駆け落ち成功だとしたら。その先に描かれる物語の中には、浮気がバレたロミオがジュリエットに対して「謝りたい」を連発する、というシーンもきっとあったはずだ。
「恋人たちは、時に全力で現実を無視しながら、恋愛を持続させていく」
相席スタートはシェイクスピアと同じ角度で、恋愛の行き着く果てを描くことに成功している。
コント『付き合って半年』は、まさしく名作である。いまだ青き恋路しか知らない日記の中の自分に、どうにかして視聴させてやりたい。

相席YouTube


執筆者プロフィール
文筆業。東京生まれ。
主な著書に『今日もひとり、ディズニーランドで』、『ふざける力』、『夜の墓場で反省会』、『ヤバイ鳥』などがある。
YouTubeでネタ動画ばかりを視聴して毎日を過ごしています。

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