ピストジャムが綴る「世界で2番目にクールな街」の魅力「シモキタブラボー!」
黒い手すり

シモキタブラボー!

「世界で2番目にクールな街・下北沢」で23年、暮らしてきたサブカル芸人ピストジャムが綴るルポエッセイ。この街を舞台にした笑いあり涙ありのシモキタ賛歌を毎週、お届けします。

「世界で2番目にクールな街・下北沢」で23年、暮らしてきたサブカル芸人ピストジャムが綴るルポエッセイ。この街を舞台にした笑いあり涙ありのシモキタ賛歌を毎週、お届けします。

出典: FANY マガジン
出典: FANY マガジン
イラスト:ピストジャム

黒い手すり

シモキタで不思議な体験をしたことがある。いまだに、なぜあんなことになったのかわからない。

あれが何年前のことなのか、正直はっきり覚えていない。長い間、自分の記憶の中から消してしまっていた。

そのことを思い出したのは、数か月前だった。思い出してから、しばらくそのことをこの連載に書くかどうか迷っていた。

理由は、それがまったく意味がわからないできごとだったからだ。振り返っても、なぜ自分がそんなことに巻き込まれてしまったのか、いや、どうして自分がそんな行動を取ってしまったのか。わからない。

理解できないことほど、恐ろしいものはない。僕は、結局自分自身が怖くなったんだと思う。いまのいままで、それについて誰にも話したことがないのも、そのせいだ。

芸人だから、笑い話にしたかった。でも、僕にはできなかった。

それは、僕の話術がどうのという以前の問題で、自分が理解できていない話を他人に話すことということは、非常に……。いや、やめておこう。弁明はしない。

でも、今日はこの話を書くことに決めた。これまで心に蓋をして、見ないように思い出さないように隠していた話をここに記す。

これは、実際に起こったできごと。都市伝説でも、霊的な話でもない。まずは、僕がそのことを思い出した日のことから話そう。

その日は朝から雨が降っていた。ふだんは自転車で直接仕事場に向かったり、駅まで自転車で行って、それから電車に乗ったりしている。小雨くらいなら、そのまま自転車に乗るのだが、今日の雨はそんなわけにもいかないほど強かった。

部屋を出て、自転車の鍵を外そうとしたところで、雨足の強さにあきらめた。部屋に戻って傘を取り、歩いて駅に向かうことにした。

歩いて駅まで向かうのは久しぶりだった。久しぶりといっても、こんなことは数か月に一度はあることなので、特段珍しいことではなかった。

だが、その日の天候は雨だけではなく、風も強かった。家を出て、10分も歩くとスニーカーに水が染み込んできた。靴下が濡れていくのがわかる。気持ちが悪い。

ふと、濡れたスニーカーと靴下の生乾きのにおいが嗚咽するほど臭かったことを思い出して、さらに気持ちが悪くなる。

これから仕事なのに。せめて靴下は100円ショップで買ってから行かないと。

殴りつけるような雨が、傘に当たってばちばちと音を立てている。風も、地面から噴き出したように突然下から吹いてきて、傘がぐわんぐわんと振りまわされる。

気づくと、右半身と背負ったリュックはずぶ濡れになっていた。駅まで、あと5分は歩かなければならない。

靴下は、もう死んだ。スニーカーの中に水がたまって、歩くたびにちゃぷちゃぷ鳴っている。

雨足が弱まる気配はいっさい感じられない。なんなら、家を出たときより強くなっている気がする。

重くなったスニーカーを引きずるように歩く。昔観た『プラトーン』という映画のワンシーンを思い出す。雨の中のジャングルで、チャーリー・シーンが夜どおしずぶ濡れになりながら見張りをするシーン。

戦争に行ったら、あんなことさせられるんだ、嫌だなあ。そう思っていたのと同じくらい、いま濡れている。

あ! 思わず飛び込む。安全地帯。目の前の歯医者のひさしに救われる。

ここ、確か前はパソコン教室だったよな。まだシャッターは閉まってるし、ちょっとくらい雨宿りしてもいいよな。

態勢を整える。傘を閉じ、ジャケットについた雨を払う。やっぱり、足もとが気持ち悪い。スニーカーを脱いで、中にたまった水を捨てる。少し茶色く汚れた水が、思っていたより出てきて驚く。

うがいするときくらいの量はあるな。そう思ったあと、なぜかその汚れた水で自分がうがいをする姿を想像して、また気持ちが悪くなる。

リュックを下ろし、シャッターにもたれかけさせる。ジャケットの右ポケットにアイコスを入れていたことを思い出し、あわてる。

よかった。思っていたほど濡れていない。でも、たばこは湿気っている。箱が濡れて、角がぐちゃっとつぶれてしまっている。

まだ吸えるかな。でも、ここで吸ったらまずいよな。

あたりを見まわしたそのとき。右手にある、小さな階段の黒い手すりを見て、体に電流が走った。

俺、この階段上ったことある。

一瞬で、そのときのことが走馬灯のように頭の中をかけ巡った。

茶沢通り沿いの、茶色いレンガのマンション。入り口は、そう。小さな階段と黒い手すりだった。

あの日は、夜だったから。はっきりと覚えていなかったけど。ここだ。

俺、この2階のどこかの部屋に入って行った。全然知らない人の部屋に。

思い出せば思い出すほど、自分が怖くなった。なんで。なんでそんなことしたんや。

あの日は、すぐ近くのベースメントバーというクラブで、深夜までひとりで飲んでいた。あれは、僕がまだ大学生のころだった。おそらくシモキタに引っ越して、まだ間もないころ。

店を出て歩いていると、前からきた男が何か話しかけてきた。何て言われたのかは覚えていない。

でも、その数分後、僕は彼に連れられて、この階段を上り、彼の部屋に行った。

部屋には、男が3人いた。なんとなくしか覚えていないのだが、みな20代くらいだったと思う。シモキタではあまり見かけないB-BOYふうのファッションの人たちだった。

出典: FANY マガジン
出典: FANY マガジン
イラスト:ピストジャム

そして、僕はそこでまた数時間飲んで、家に帰った。

連絡先も交換していないし、それから彼らと一回も会うことはなかった。何をされたわけでもないし、ただ一緒に酒を飲んだだけだった。

でも、もしかしたら何か起こっていたかもしれない。あれが変な人なら、事件に巻き込まれていた可能性もある。道端で会った知らない人を部屋にあげて飲もうと誘ってきている時点で、その人は変な人ではあるのだが、真にヤバい人じゃなくて本当によかった。

ただ、思い返せば思い返すほど、自分が怖くなる。僕が知っている自分という人間は、絶対にそんなことはしないと思っているのに。僕は、していた。

この道は、いつも自転車で通っている。それなのに、今日の今日まで思い出すこともなかった。それも恐ろしい。

きっと、いままで気づかないふりを僕自身がしてきたのだ。僕の中に潜む、別の自分を隠すために。

道路に打ち付けられた雨粒が、砕けてスニーカーの上に飛び散り続けている。もう裸足になろうかな。そう思うと、少し気が楽になった。


出典: FANY マガジン
出典: FANY マガジン

ピストジャム
1978年9月10日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学を卒業後、芸人を志す。NSC東京校に7期生として入学し、2002年4月にデビュー、こがけんと組んだコンビ「マスターピース」「ワンドロップ」など、いくつかのコンビで結成と解散を繰り返し、現在はピン芸人として活動する。カレーや自転車のほか、音楽、映画、読書、アートなどカルチャー全般が趣味。下北沢に23年、住み続けている。

HPはこちら