ハハハ
くもりの予報だったのに、拍子抜けするくらい日が差してきた。道路には、まだ昨晩の雨が残っている。
自転車を電柱にもたせかけて、ジャケットのポケットからスマホを取り出す。11時になったばかり。
とん水が開くのは11時半。あと30分もある。
いったん家に帰ることも考えたが、やめにした。時間が中途半端なこともあったけれど、人が全然歩いていない街の景色がのどかでなつかしく思えて、帰る気にならなかった。
今朝は珍しく9時半から打ち合わせがあった。しかもシモキタで。
自転車でゆったり、あてもなく路地を流す。シモキタの道は入り組んでいるので、ミニ四駆のコースを走っている気分になる。
平日の午前中の一番街商店街。ほとんどの店は、シャッターを重いまぶたのように閉じたまま、まだ眠っている。
昼なのに、人の気配が感じられない商店街。知った街並みのはずなのに、映画のセットに迷い込んでしまったみたいだ。
太陽の光が濡れたアスファルトに反射して、ところどころきらめく。空を見あげると、にごった雲を押しのけるように晴れ間が広がっていた。
「月に吠えよ、萩原朔太郎展」。街路灯に吊るされたフラッグ広告が目に入る。
「世田谷文学館で開催中」「猫町フラッグをつくろう」という文字とともに、子供が描いたと思われる猫の絵がフラッグいっぱいに載っていた。あたりを見渡すと向かいの街路灯にも、奥の街路灯にも猫町フラッグが。猫の絵はすべて違っている。
「シモキタどうぶつえん」を思い出した。10年ほど前、一番街ではシモキタどうぶつえんというイベントが数年にわたっておこなわれていた。
全街路灯のフラッグに子供が描いたさまざまな動物の絵が飾られ、その期間は商店街が華やかなギャラリーに変貌した。僕はそのイベントのファンで、期間中はしばしば散歩して絵を見てまわった。
子供の絵は、素朴でかわいらしくて、のびのびしていて大好きだ。子供が描く絵を前にしたら、ピカソもバスキアもかすんでしまう。
なかには紫色のウサギや、足が8本くらいあるピンクのワニなど、奇抜な動物たちも描かれていた。既成概念や常識にとらわれない、おおらかで自由な表現に魅せられる。大人にはとうていまねできない。
絵の中に、覚えたてのぐにゃんぐにゃんのひらがなで「たいがあ」とか「ぽけもん」と力強く書かれたものもあった。その生命力にあふれた字を観ているだけで笑顔になる。
猫町フラッグも全部鑑賞したい。とん水の開店まで、いい暇つぶしが見つかった。
そう思い、自転車を押して歩き出そうとすると、目の前を昭和レトロな自転車にまたがったグレイスさんが通りすぎた。トレードマークのリーゼントパーマは帽子で隠されていたが、ひと目でわかった。
すれ違ったとき、目が合ったのは偶然だろう。僕のことなんて覚えているわけがない。
グレイスさんは、僕がシモキタに越して来たころからずっと珉亭で働いている。風の噂で、ザ・ブルーハーツの甲本ヒロトさんと一緒に暮らしていたと聞いたこともある。
不意に、そもそも僕はどこでグレイスという名を知ったんだろうか、と疑問を抱く。まったくわからない。
もしかして、自分が妄想で勝手に命名しているだけだったらどうしよう。一時期、電車に乗っているときの暇つぶしで、目の前に立っている人や座っている人の名字を当てるクイズをひとりでやっていたので不安になってくる。
グレイスさんはくりっとした大きな目で、身長も高くて、がたいもいい。それでもって、髪型はいつもふわっとしたリーゼント。バンドマンだという話もあり、独特なオーラを放っていた。
間違いなくシモキタの名物店員。珉亭好きのシモキタ民からは、グレさんやグレ兄と呼ばれ、親しまれている。もしシモキタに住んでいてグレ兄のことを知らないという人がいれば、モグリと言っていいだろう。
名物店員といえば、数年前まで「とりとんくん」という居酒屋で働いていたナパもそうだった。彼女は、その店で評判の店員だった。
声も体も大きく、彼女がいると店は活気づいた。シヴァ神のように長い髪を頭の上で団子にまとめ、太めのアイラインで目尻をはねあげた強めのメイク。腕にタトゥーも入っていたので、見た目のインパクトは強烈だった。
しかし、人一倍てきぱきと仕事をこなし、笑顔で接客する彼女の姿は見ていて気持ちがよかった。店に入って彼女がいると、それだけで元気をもらえた。
彼女と仲よくなったのは、COWCOW善しさんがきっかけだった。あるとき、善しさんとシモキタのバーで飲んでいると
「いまからナパが来るかも」
と言った。
当時、僕は彼女の呼び名がナパだとは知らなかった。
「ナパ?」
聞き慣れない音に驚いて、思わず訊き返した。
「ナパーム・デスってバンドいるやろ? そんな女の子」
「女なんですか? ナパーム・デスみたいな女の人って。でも、とりとんくんに『ひとりマキシマム ザ ホルモン』みたいな女の人はいますよね」
そう僕がこぼすと、善しさんは大笑いしながら
「それやん。それがナパや」
と手をたたいた。
それから彼女とは、会うたびに話すようになった。彼女はバンド関係の友人が多く、会うのもシモキタだけにとどまらなかった。
GARLICBOYSのライブを立川に観に行ったら会場で遭遇したり、新代田のFEVERというライブハウスの前でbachoのmiugoさんと話していると、たまたま彼女が自転車で通りすがり、miugoさんを見つけて
「久しぶり。何してんの?」
と声をかけてきて、三人で話したり。
シモキタの名物店員は、僕の前をよく自転車で通りすぎる。グレイスさんの後ろ姿を眺めながら、そんなことを思い返した。
その後、自転車を押しながら猫町フラッグを順に鑑賞した。気がつくと、いつのまにかとん水の営業時間になっていた。
店を訪れると、お父さんとお母さんは、僕の本を買ってくれていた。ありがたい以外の言葉が見つからない。焼きそばとカキフライをほおばりながら、感慨にひたる。
そういえば、ナパも本を買ったと連絡をくれたのに、お礼を言いに行っていない。今夜、彼女の店に顔を出そう。
彼女はとりとんくんをやめ、4年前からアパレルブランドのローリングクレイドルが展開する「ハハハ」というバーで店長として働いている。以前は何度か飲みに行ったが、コロナ禍になってすっかり足が遠のいてしまっていた。
20時。久々のハハハ。
入店すると、ナパは衝撃的な姿になっていた。両腕がギブスで覆われていたのだ。
「両方骨折しちゃったよお」
仰天する僕に見せつけるように、彼女は笑いながらギブスで「く」の字に固定された両腕を、クワガタのように胸の前で左右に動かした。
「それはたいへんすぎるやろ。なんでそんなことになったん?」
聞くと、自転車で中央分離帯に突っ込んで頭から転んでしまったと言う。恐ろしい事故だ。
無事じゃないけど、無事でよかった。
「初日、ブラジャー付けれなくてノーブラで病院行ったよ」
両腕骨折なんて、想像するだけでもつらい思いをしているだろうに、それも豪快にハハハと笑い飛ばす彼女に、僕は今日も元気をもらってしまった。
ハハハは、ただいまフードの持ち込みオッケーとなっている。両腕骨折の店主と記念撮影もできるということなので、みなさんぜひぜひ飲みに行ってみてください。
このコラムの著者であるピストジャムさんの新刊が10月27日に発売されました。
書名:こんなにバイトして芸人つづけなあかんか
著者名:ピストジャム
ISBN:978-4-10-354821-8
価格:1,430円(税込)
発売日:2022年10月27日
ピストジャム
1978年9月10日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学を卒業後、芸人を志す。NSC東京校に7期生として入学し、2002年4月にデビュー、こがけんと組んだコンビ「マスターピース」「ワンドロップ」など、いくつかのコンビで結成と解散を繰り返し、現在はピン芸人として活動する。カレーや自転車のほか、音楽、映画、読書、アートなどカルチャー全般が趣味。下北沢に23年、住み続けている。