一番好きな景色
「もう帰りな」
となりに座るポコさんが言う。ああ、どうしよう。寝てしまっていた。
その言葉ではっと目を覚ましたけれど、酔いがまわっていて何も考えられない。カウンターに立つジュンさんは笑ってこちらを見ながら、すっと水を差し出してくれた。
おいしい。硬水かな。いつも飲んでいる水道水と明らかに味が違う。
昨晩、魔人屋(まんとや)に飲みに行った。緑茶ハイとカレーライスを頼んで、ほかは何を注文したっけ。
そうだ、ポコさんお手製のイカの塩辛と和レモンの果実酒もいただいた。そのあとは何を飲んだっけ。思い出せない。
赤ワインだ。赤ワインのグラスを2杯飲んだ。
「明日、うち休みだから飲みに行こうか。行こう行こうって言ってて行けてないし」
帰り際にポコさんから誘ってもらった。
「シモキタに20年以上住んでるのに、椿に行ったことないなんてダメだよ。明日、連れてってあげるから。19時ね」
椿というやきとり屋があるのは昔から知っていた。でも、一度も行ったことがなかった。
「八幡湯に通ってたから、場所はわかります」
「そうそう、ニューヨークジョーのところ」
八幡湯の跡地にできた古着屋の名前知ってるんだ。口には出さなかったけれど驚いた。
あれ、いまこれ何軒目だ。椿のあと、abillに行って、tomboy…に行って。ここはバシブズークだから、四軒目か。
tomboy…で、つぶれちゃったんだよな。トモさんとポコさんが話しているのを聞いているつもりだったのに。いつのまにか眠ってしまっていた。
ジャスミンハイ、半分残しちゃったな。トモさんに悪いことした。
さっき椿で出勤前のトモさんと知り合ったばかりなのに、すぐ店に顔を出すポコさんは男前だよな。トモさんも黒髪のショートカットに、黒ぶちめがね。首には黒革のチョーカー。個性的なファッションなのに礼儀正しい感じが接客に出てて、かっこよかった。それに比べて僕は。なんとも情けない。
椿のカウンターの端で飲んでいた珉亭のヒロシさんも、初めて話したのに僕が本を書いたと言ったら、その場で本を買ってくれて感激したな。あれも、ポコさんが
「彼はね、最近新潮社から本を出したんですよ」
と紹介してくれたことがきっかけだった。本当にありがたい。
abillのタルティーヌめっちゃおいしかった。また食べたい。
たしか、前は裏窓って店だった。ミスチルのメンバーがいつも打ち上げに使っていたってよく聞いた。
abillって、たばこも吸えるんだ。若いご夫婦で店をやられてるのっていいな。
魔人屋で出してる狭山茶の緑茶ハイも置いてあった。abillでは緑茶ハイ飲んで、赤ワイン飲んで。そのあと何か飲んだっけ。
もうこのへんからあやしかったな。たぶん椿のレモンハイですでにやられてた。れんとウーロンもパンチあったしな。
回想が頭をぐるぐるかけめぐる。気づくと、また目を閉じていた。わかっているのに開けられない。
店内にブジュ・バントンの伸びのあるハスキーな歌声が響く。
「ブジュ・バントン最高」
僕がそう小さくこぼすと、ジュンさんは
「お、起きたね」
と、また笑う。
ジュンさんは粋なことをしてくれる。このアルバムは、学生のときにバイトしていた自由が丘のカフェバーで、いつも僕がかけていた。そのことを本に書いていたので、ジュンさんはいま僕のためにこれをかけてくれた。
「音楽の描写が文章に出てくると反応しちゃうんだよね」
「本当にありがとうございます」
会話が噛み合っていないとは思ったが、ジュンさんが僕の本を読んでくれたことと、このタイミングでそのアルバムをかけてくれたことに感じ入って、感謝の言葉しか出てこなかった。
ジュンさんみたいに、おしゃれな50代になりたい。ちょっとくたびれたキャスケットも、レンズが大きめのめがねも、無精ひげの感じも、渋さとかわいげがあって憧れる。
「彼はね、最近新潮社から本を出したんですよ」
ポコさんが、右どなりで飲んでいるタケシさんに話しかける。あ、これ、さっきも椿であったやつだ。
急いでリュックから本を取り出そうとするが、酔っているから手もとがおぼつかない。なんとか本を取り出して、
「こんな本を書いたんです」
と言うやいなや、タケシさんは
「じゃ、買います」
と、本を手に取ってくれた。
タケシさんとは初対面だ。しかも、僕はついさっきまで完全に寝ていたのに。
こんなどうしようもない奴が書いた本を買ってくれるなんて。シモキタの飲み屋はどこまであたたかいんだ。
「書いてるシモキタの風景が全部わかるから、おもしろいよ」
ジュンさんがしみじみとつぶやく。
「私はまだ読んでないけど、前に見せてくれたのはいい文章だったよ」
以前、この連載に書いた「#20 奇天烈ディープナイト」という回。それは今年ポコさんの70歳の誕生日に、偶然魔人屋に訪れた話。きっとポコさんは、そのことを言ってくれているのだろう。
あのとき、魔人屋でポコさんと二人で飲んでいた客がジュンさんだった。あれから、僕はバシブズークにも飲みに行くようになった。
椿もabillもtomboy…も今日初めて訪れた。そういえば、昨晩魔人屋を出たあとに別のバーに行ったら、そこのマスターと客に笑円という居酒屋もすすめられた。そこも店の場所はわかるが、飲みに行ったことがない。
シモキタのことならなんでも知ったようなつもりになっていたが、全然そんなことなかった。24年住んでいるのに、まだまだ行ったことのない店がたくさんある。
店を出ると、雨があがっていた。雨があがっていた?
いつ雨が降っていたんだろう。わからない。
すみきった冷たい冬の空気が心地いい。街灯の光がいつもより輝いて見える。見なれた信号の明かりまで美しく感じる。
雨あがりの夜のシモキタ。一番好きな景色だ。
「家まで送りますよ」
「大丈夫、大丈夫。私は自分のペースでやるから。今日はここで解散!」
ポコさんは鏡のようにきらきらと光を反射する水たまりを、大股でひょいと飛び越えた。
このコラムの著者であるピストジャムさんの新刊が10月27日に発売されました。
書名:こんなにバイトして芸人つづけなあかんか
著者名:ピストジャム
ISBN:978-4-10-354821-8
価格:1,430円(税込)
発売日:2022年10月27日
ピストジャム
1978年9月10日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学を卒業後、芸人を志す。NSC東京校に7期生として入学し、2002年4月にデビュー、こがけんと組んだコンビ「マスターピース」「ワンドロップ」など、いくつかのコンビで結成と解散を繰り返し、現在はピン芸人として活動する。カレーや自転車のほか、音楽、映画、読書、アートなどカルチャー全般が趣味。下北沢に23年、住み続けている。