落としがちな男
家の前で立ちつくす。5秒、完全に固まる。目を開けているのに、視界に何も入ってこない。絶望とは、こんなに一瞬で訪れるのか。
鍵がない。
どこかで落としてしまった。
目を閉じて、いったん落ち着こうと試みる。
10年前から、メッセンジャーバッグを主に生産しているCHROMEというブランドのキーチェーンを愛用している。このキーチェーンは、上部に設置された小さなベルトをズボンのベルトやベルトループに巻きつけ、ボタンをとじて使用する。鍵は、その下部にある二重リングにつける仕組みになっている。
これを気に入って使うようになった理由は、上部のズボンに固定する部分と下部の二重リングの間に、シートベルトに使用されているタイプのバックルが取り付けられていて、上部と下部がセパレートできるからだ。バックル部分のブランドロゴが描かれたボタンを押すと鍵のついた下部が離れ、鍵の開け閉めが非常に便利なのだ。
ただ、今回はこれが裏目に出た。ズボンのベルトループにはキーチェーンの上部がしっかりとぶらさがっているけれど、バックルから下がなくなっていた。
おそらく、鍵を使ったあとバックルにはめ直したつもりになっていたが、きちんとはまっていなかったのだろう。
最後に鍵を使ったのは、いつだったか?
目を閉じたまま、自分の行動を逆再生する。
キーチェーンに取りつけている鍵は2本。部屋の鍵と、自転車に取りつけるU字ロックの鍵。
10分前だ。シモキタ駅前の駐輪場から自転車を取り出す際に、U字ロックの鍵を開けた。
ということは、駐輪場から家までの道のりのどこかに落ちている可能性が高い。
すぐさま、来た道を戻る。
時刻は午後8時。
暗い地面を凝視しながら歩く。
もしいたずらっ子が鍵を拾って、ふざけてどこかに放り投げていたらどうしよう。酔った人が蹴飛ばして、側溝に落ちてしまっていたらどうしよう。散歩中の犬が鍵をやたら気に入って、くわえて家まで持ち帰っていたらどうしよう。心やさしい人が拾ってくれたのはいいが、交番に届けるのは明日にしようと、今晩は家で保管していたらどうしよう。もし鍵が見つかったとしても、車のタイヤに踏みつけられてぐにゃぐにゃに曲がっていたらどうしよう。
悪い想像ばかりが頭をかけめぐる。
実は、この10年で2回鍵を落としている。いずれも同じパターン。バックルに完全にはまっていないことが原因だったと思われる。
一度目はシモキタの駅構内の階段をくだっているとき。たまたま、うしろにいた女性が気づいて拾ってくれた。
危なかった。そのまま電車に乗って移動していたら、絶対に見つけられなかっただろう。あの女性が声をかけてくれなかったら、僕は数時間後、途方に暮れていた。
二度目は今回とまったく一緒で、バイトから帰って来たら鍵がなかった。来た道を戻り、30分ほど探した。
深夜で、もともと人通りの少ない住宅街を通ってバイトから帰っていたので、人に拾われている可能性は薄いだろうと思っていた。案の定、鍵は落としたと思われるそのままの状態で道路に転がっていた。
今回は、人通りの多いシモキタの駅周辺で落としている可能性がある。そしたら逆に見つからないかもしれない。また不安がよぎる。
いや、そんなことはない。
20年前にシモキタの街で財布を落としたことがあった。そのときも目の前が真っ暗になったが、交番に届けられていた。しかも、所持金も免許証もカード類もすべて無事だった。
あのときは届けてくれたかたに連絡を取り、そのかたが好きだという赤ワインを買ってお礼にうかがった。どんなお礼の品でも持って行くので、誰か交番に鍵を届けていてくれ。祈りながら、アスファルトを見つめ駅前を目指す。
思えば、最近ついていない。
先日、シモキタのある自動販売機で缶コーヒーを買おうとボタンを押したら、炭酸飲料が出てきた。まさか、とは思ったが、人間がやる仕事なのでミスはつきものだと気持ちをしずめて、その缶コーヒーのとなりに並んでいる缶コーヒーを改めて買うことにした。すると、また炭酸飲料が出てきた。
たいしたことではないし、別に腹が立っているわけではないのだけれど、自分の運のなさに少々悲しくなった。
この前なんて、結局見つかったのだが、スマホをなくした。自分の不注意以外のなにものでもないのだけれど、ついてないなと思った。どしゃぶりの雨の日だったし、そんな気分になった。
地面を見つめながら歩いて15分。もうまもなくシモキタの商店街にさしかかるという住宅街のあたりで、数メートル先に何かが落ちているのに気がついた。
「ここやで」
家の鍵につけたストームトルーパーのキーカバーと目が合った。
人目をはばからず、大声を出してガッツポーズをしたかった。しかし、近所迷惑を考えて歓喜の声は押し殺した。
そして、誰にかっこつけたのか自分でもよくわからないけれど、なにごともなかったかのようにすっと鍵を拾いあげた。
「悪かったな」
そうつぶやいて、ポケットの中に鍵を押し込んだ。
「お前、何回落としたら気がすむねん」
ポケットの中から、ストームトルーパーの声がかすかに聞こえた気がした。
このコラムの著者であるピストジャムさんの新刊が2022年10月27日に発売されました。
書名:こんなにバイトして芸人つづけなあかんか
著者名:ピストジャム
ISBN:978-4-10-354821-8
価格:1,430円(税込)
発売日:2022年10月27日
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ピストジャム
1978年9月10日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学を卒業後、芸人を志す。NSC東京校に7期生として入学し、2002年4月にデビュー、こがけんと組んだコンビ「マスターピース」「ワンドロップ」など、いくつかのコンビで結成と解散を繰り返し、現在はピン芸人として活動する。カレーや自転車のほか、音楽、映画、読書、アートなどカルチャー全般が趣味。下北沢に23年、住み続けている。