奇天烈ディープナイト
下北沢は、小田急線と井の頭線が利用できる。小田急線で新宿方面にひと駅進むと東北沢駅。井の頭線で渋谷方面にひと駅進むと池ノ上駅。どちらもシモキタの駅から歩いても5分強。距離にすると約600mだ。
この両駅付近は、シモキタのはずれ。大袈裟に言えば、シモキタのベッドタウンといってもいいだろう。
実際シモキタで飲んでいると、
「東北沢のほうに住んでる」
とか
「池ノ上のほうに住んでる」
と、口にする人が多い。駅の間隔が短いので、わざわざシモキタのど真ん中に住まなくても、シモキタライフは十分に満喫できるのだ。
シモキタに長く住んでわかったのは、シモキタのど真ん中に住んでいる人よりも、この東北沢や池ノ上に住んでいる人たちのほうが、店をたくさん知っているということだ。本当に下北沢駅が最寄り駅だという人は、シモキタの駅周辺ですべてこと足りるので、東北沢や池ノ上のほうまで足を伸ばすことは少ない。
しかし、東北沢や池ノ上に住んでいる人たちは、シモキタのはずれにぽつんとあるような飲食店や洋服屋まで知っていたりする。シモキタを骨の髄まで楽しむなら、この東北沢・池ノ上エリアを外すことはできない。
僕が長く住んだ風呂なし共同トイレのアパートも、シモキタのはずれに位置していた。北沢1丁目というところで、下北沢駅よりも、東北沢、池ノ上の駅のほうが近かった。
東北沢には、4年前まで「チェリー」という名のスナック喫茶があった。スナック喫茶ってなんやねんという話なのだが、要するに喫茶店のように軽食も食べられるスナックのことだ。
ただ、チェリーはスナックといってもママさんとボーイさんがひとりいるだけで、普通のバーだった。いや、違う。普通、ではなかった。
初めてチェリーを訪れたのは、20年前。その日シモキタのバーで知り合ったばかりのおじさんに
「次の店おごってやるから、二軒目行こう」
と、突然誘われて、チェリーに連行された。
20代のころは、こんなことがよくあった。顔なじみのマスターが働いているバーのカウンターでひとりで飲んでいると、マスターが
「こいつ、鈴なり横丁のバーで働いてる奴なんだ」
と、僕のことを隣で飲んでいるおじさんに紹介してくれるのだ。
そうすると、そういうおじさんはたいがい
「ふだんどこで飲んでんだ?」
から始まり、
「どの辺に住んでんの?」
「あの店は行ったことあるか?」
などと事情聴取してくる。
その取り調べを乗りきり、おじさんに気に入られると
「あのバーのカレーはうまいぞ」
とか
「あそこの店には行かないほうがいいぞ」
と、シモキタの飲み屋事情をいろいろ教えてくれる。そして、さらに話が盛り上がると
「よし、次の店行こう」
と、なるのだ。
チェリーの、店のつら構えはなかなかのインパクトだった。「スナック&喫茶 チェリー」と書かれた、店先のえんじ色の雨よけテントには、むき出しのCDがたくさん吊るされていた。あまり見ない光景だ。カラスよけのためだろうか。
ドアの隣には、鉢植えに入った木があるのだが、もうすっかり枯れてしまっているようで、葉は一枚もついていなかった。その木には、赤青黄緑のカラフルな電飾が巻きつけられていて、クリスマスツリーのようにピカピカと輝いていた。
電飾の光が、吊るされたCDに反射して、きらきらしている。ちょっときれい。
え。もしかして、これカラスよけのためじゃなくて、店先をきらきらさせるためにCDを吊っているのか? どっちなんだろう。わからない。
店の外壁やドアには、さまざまな言葉が書かれた紙がべたべたと貼られていた。「幸せな失恋」「自分ファン」など、店主のオリジナルと思われる言葉。漫画みたいに、店に吹き出しがついていて、まるで店自体がしゃべっているように思えた。
少し尻ごみしつつも店に入ると、店内の至るところに、言葉、言葉、言葉、言葉。壁はもちろん、トイレの中や、カウンターの表面にまで、いろんな言葉が書かれた紙が無数に貼られていた。
「恋愛を苦楽しむ」「代わりのない人」「こらえろよ」「こころの110番」「疲れたら休む」「UNOあります」。「UNOあります」!? 名言や格言ばかりが貼られていると思ったら、いきなり接客の言葉が。
あまりにも強烈な店の雰囲気に圧倒されていると、僕を連れてきたおじさんが
「ここ、松田優作も来てたんだぜ」
と、ドヤ顔で言う。嘘つけ! と思ったが、ママさんに訊いたら本当だった。
テーブルに将棋盤を広げ、飲みながら将棋を指している人もいた。もう驚かないが、深夜に飲み屋で将棋を指している客の姿は、ディープすぎる。
後日、オリオンリーグの剛くんに
「チェリーって店知ってる? すごい店やったで」
と、興奮気味に話すと、剛くんはけろっとした感じで
「俺、よくそこで飲みながら将棋指してるよ」
と答えた。こんな近くに常連さんがいるとは。恐れ入りました。
チェリーは、シモキタの再開発の影響で移転した。いまは、笹塚で営業しているらしい。
池ノ上には、今年で47周年を迎える「魔人屋(まんとや)」というジャズバーがある。魔人屋の店主は、ポコさんという女性で、ジャズシンガーでもあった。
初めて訪れたのは、僕が20歳のとき。大学3年になり、東急東横線の日吉駅から小田急線の梅ヶ丘駅に引っ越してきた。
憧れていたシモキタのバーに、ひとりで飲みに行くようになり、プッチンという人と出会った。プッチンは、僕のシモキタの師匠で、のちに僕がバイトすることになる鈴なり横丁の「Puttin」というバーの店主だった。
プッチンは、シモキタの老舗といわれる飲み屋やバーに、いつも僕を連れて行ってくれた。その一つが、魔人屋だった。
ポコさんは、プッチンの名づけ親でもあった。プッチンの弟子の僕からしたら、ポコさんは大師匠だ。
しかも、ポコさんは19歳のときにジャズ喫茶マサコで働いていたという。マサコで働いたことをきっかけに、ポコさんはシモキタが大好きになり、23歳で魔人屋をオープンさせた。まさに、シモキタの生き字引だ。
プッチンが魔人屋の扉を開けると、中では即席のライブがおこなわれている最中だった。扉の前にはポコさんがちょうど立っていて、プッチンに気づくと
「おおお! プッチーン!」
と、人懐っこい、くしゃくしゃの笑顔でプッチンに抱きついた。プッチンは、まだしらふだったので少し照れくさそうだった。
カウンターに座り、ビールを頼む。店内には3、4人の客。
僕たちが入ってきたことなんてお構いなしに、即席ライブは続いている。客と思われる中年男性が、ジャズのスタンダード・ナンバーをアコースティックギターで弾き、ポコさんが歌っている。
ポコさんの見た目は個性的で、かなりボリュームのあるおかっぱ頭だった。小柄で、ころころした感じもとてもかわいらしい。
ポコさんが、歌いながらプッチンを手招きするような仕草をする。すると、プッチンは
「ギターもう一本ないの?」
と言って、たばこをくわえながら、慣れた手つきで店にあるギターをチューニングし出した。そして、
「ビートルズでもいい?」
と、ポコさんに訊いてギターを弾き出した。
曲は、ビートルズの『ブラックバード』という曲だった。美しいイントロ。
店の雰囲気が一瞬で変わる。いままでわいわい騒いでいたのに、突然みな黙って、プッチンが奏でるギターの音色に耳を傾けた。
ポコさんはどんなふうに『ブラックバード』を歌うんだろう。そう思っていたら、プッチンがそのまま弾き語りで歌い出した。
お前が歌うんかい、と思ったが、誰もツッコまない。自然と手拍子が起こる。
間奏になると、みなグラスを掲げて
「イェーイ!」
とか
「フォー!」
と口々に叫ぶ。指笛を鳴らす人も。
最後は、みなで大合唱。僕も楽しくて、歌詞をよく知らないのに
「ユアオンリーウェイティン、ふふん、ふんふん、トゥアラーイズ」
みたいな感じで合わせて歌った。
曲が終わると、ポコさんは僕の隣に来て尋ねた。
「何か歌える曲ないの?」
僕は、
「英語の歌は……。ちゃんと発音もできないんで……」
と、戸惑いながら答えた。すると、ポコさんは僕の肩をたたきながら
「日本語英語でいいんだよ。日本人らしくカタカナで思いっきり歌えばいいの」
と、また顔をくしゃくしゃにして笑った。
僕は、吸いかけのたばこの火を消して
「じゃ、『スタンド・バイ・ミー』で」
と、言って席を立った。
ポコさんは、そののち2000年に公開された市川準監督、原田芳雄さん主演の『ざわざわ下北沢』という映画に出演した。エンディング曲は、ポコさんが歌う『ラブ・イズ・ヒア・トゥ・ステイ(我が恋はここに)』という曲だった。
先日、無性にポコさんに会いたくなって、深夜にもかかわらず魔人屋にうかがった。夜中2時、まだ看板には明かりが灯っていた。
扉を開けると、ポコさんはカウンターで男性客と二人で飲んでいた。もう店じまいだよ、という雰囲気だ。
「ポコさんに会いたくて来ました。一杯だけ飲ませてください」
そう口にすると、ポコさんと一緒に飲んでいた男性が笑みをこぼす。
「その言葉、最高じゃない。すごいタイミングに来たね。日が明けて、今日はポコさんの70歳の誕生日だよ」
シモキタの夜は、小さな奇跡を起こしながら、いつまでも続いていく。ポコさんが歌う『アメイジング・グレイス』が、シモキタの夜に降りそそぐ。
ピストジャム
1978年9月10日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学を卒業後、芸人を志す。NSC東京校に7期生として入学し、2002年4月にデビュー、こがけんと組んだコンビ「マスターピース」「ワンドロップ」など、いくつかのコンビで結成と解散を繰り返し、現在はピン芸人として活動する。カレーや自転車のほか、音楽、映画、読書、アートなどカルチャー全般が趣味。下北沢に23年、住み続けている。
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