ピストジャムが綴る「世界で2番目にクールな街」の魅力
「シモキタブラボー!」『さ』『よ』『な』『ら』

シモキタブラボー!

「世界で2番目にクールな街・下北沢」で23年、暮らしてきたサブカル芸人ピストジャムが綴るルポエッセイ。この街を舞台にした笑いあり涙ありのシモキタ賛歌を毎週、お届けします。

「世界で2番目にクールな街・下北沢」で23年、暮らしてきたサブカル芸人ピストジャムが綴るルポエッセイ。この街を舞台にした笑いあり涙ありのシモキタ賛歌を毎週、お届けします。

出典: FANY マガジン
出典: FANY マガジン
イラスト:ピストジャム

『さ』『よ』『な』『ら』

その夜、僕はシモキタにいなかった。翌朝帰宅したのだが、自転車で出ていたので、駅を使わなかったし、駅や線路や踏切がどうなったのかわからないままだった。

体は疲れているはずなのに、なかなか寝つけない。いままで経験したことのないことが、いまシモキタで起こっている。自分の街が、今日から新しいかたちに変わる。新しく何かができたわけではない。ただ、なくなったのだ。街から線路と踏切が。

今夜、最終電車が走り終わるとシモキタから線路と踏切がなくなる。小田急線が地下化する話を聞いたとき、本当になくなるのか? シモキタのことだから、そんな計画も昔ありましたね、みたいな感じで、気がついたらいつの間にか計画自体がなくなっていたりとか、そんなふうに流れる可能性は全然ありえるよな。きっと大丈夫だよな。そう思った。

地下化の話を聞いてしばらく経ってからも、工事がかなり遅れてるみたいだし、どうせ完成はまだまだ先だろう。サグラダファミリアみたいに、この工事も永遠に続いていったらおもしろいのに。なんて思っていた。

そんなふうに考えていたから、現実味がなかった。明日から線路も踏切もなくなるなんて。電車が走る風景を、もうシモキタで見ることがないなんて。信じられなかった。

シモキタの踏切は、開かずの踏切として有名だった。井の頭線も走っているので、踏切の数は多かった。小さな街なのに、駅周辺には七つも踏切があった。それが、井の頭線の踏切一つを残して、すべてなくなるのだ。

シモキタの街には、いつも踏切の鐘の音が鳴り響いていた。どこに行っても鳴っていた。全然開かないから、わざわざ駅まで戻って、南口と北口をつなぐ階段を上り下りして線路を渡ったこともあった。ひどいときは、1時間のうち10分しか開いていないこともあった。通過する電車が4本行ったのに、まだ鐘が鳴り続けていると、いらいらを我慢できずにたばこを吸い出す人が大勢いた。しびれを切らして、踏切をくぐって渡る人を何度見たことか。やっと踏切が開いたと思ったら、開くやいなやすぐにまた鐘が鳴り出して閉まることなんてしょっちゅうだった。週末なんかは、踏切に人がたまってたまってすごかった。僕は人が多いと、人が少ないとなりの踏切まで移動するという、“踏切のはしご”をよくしていた。

ふとんに入ってからしみじみと感じ入る。昨晩はシモキタにいたくなかったから、先輩に誘ってもらえてよかった。シモキタに残っていたら、たぶん誰かに誘われて最終電車を見に行っていただろう。バーやライブハウスなんて、それに合わせてイベントを開いているところもあったもんな。

いや、昨日は誰かに最終電車を見に行こうと誘われても断ってたか。見たくなかったもんな。認めたくなかったって言ったら、かっこつけすぎか。でも、踏切がなくなったら便利になるのか。急いでるときに踏切に引っかかったら最悪やったもんな。でも、複雑やわ。やっぱりさびしいわ。踏切の鐘の音がせえへんシモキタなんか考えられへん。

寝る体勢が整わない。昨日まではそんなことなかったのに。寝心地が悪い。枕がへたってきたのか。敷ぶとんのせいか。何度寝返りを打ってもしっくり来ない。昨日までは大丈夫だったのに。なんか具合が違う。同じ枕だし、同じふとんなのに。眠いのに寝られない。

シモキタみたいやな。駅前の踏切なくなったから、明日からシモキタも居心地悪くなるかもな。はき慣れたお気に入りの靴を、勝手に修理されたみたいやろ。

目を閉じていると、頭の中の誰かが話しかけてきた。たまにあることだから驚かない。いつも姿は見えない。暗闇の中にひそんでいるのか。それとも声だけの存在なのか。

あのままでよかってんけどな。確かに歩くたびにペタペタペタって鳴ってたし、皮もはげてきてたし、かたちも買ったときより崩れてたけど。でも、俺はあの感じが好きやってん。俺の靴やのに、なんで勝手に修理してん。修理してって頼んでないよな? あの使い込んだ感じが渋いのに。なんでわからへんねん。

話しかけられたと思ったが、別の誰かと話しているみたいだ。僕は、靴の修理なんかしていない。でも、もうひとりの声は聞こえない。

いやいや、俺の靴やで。はくの俺やで。お前がはくわけちゃうやん。俺のことを思って修理した? そしたら迷惑やわ。悪いけど。俺はあの感じが好きやったのに。よかれと思って、とか知らんし。もうこれ別のもんやん。どうしてくれんねん。おい、聞いてんのんか?

  

翌日テレビをつけると、ほとんどのチャンネルのニュースやワイドショーでシモキタの駅の地下化の話題が取り上げられていた。見慣れたシモキタの風景がテレビで紹介されている。

テレビで見るシモキタの街は、実際に僕が目にしている街の風景とは少し違っていた。商店街も、歩いている人も、ちょっと古くさい感じがする。なんだか色あせて見える。フィルムのせいだろうか。

「いまのシモキタのほうがいい感じやな」

思わず口をつく。

テロップには、『15年前の下北沢』と書かれていた。それは、ちょうど僕がシモキタに越してきた年だった。もっと昔の映像かと思った。このとき、もう俺シモキタにいたんや。

カーテンが開いていたことに気づく。道路に面した1階の部屋なので、窓に目をやると道行く人の姿が見える。自転車に乗ったロン毛の中年男性と目が合う。

一瞬のできごと。もう自転車は通りすぎてシモキタの駅のほうへ。

たまにあるよなあ。別にどちらが悪いとかじゃない。偶然だし、知らない人だし、本当に目が合っただけだし、もう会うことのない人だし。でも、なんか気まずい。あの目が合った瞬間、確かにあの人とつながった。

奇妙なシモキタマトリョーシカ。一番外側の大きいのには、シモキタの街の絵が描いてある。二番目は、シモキタを自転車で走るロン毛の中年男性。三番目は、部屋でテレビを見ている僕。四番目は、テレビの中に映る15年前のシモキタの街の風景。五番目の、一番小さいのは、その15年前のシモキタの風景のどこかにいる、引っ越して来たばかりの僕。時空を超えてつながる五つのシモキタの風景。

テレビの映像が、昨晩の最終電車を迎える人たちの様子に切り替わる。場所は、駅のホームのすぐとなりにある踏切。歴史的な瞬間を見届けようと集まった人の数は、「人たち」なんて言葉では済まない。群衆だ。踏切後方のヴィレッジヴァンガードの入り口あたりまで、人だらけ。

野球の試合の外野スタンドで見るような『さ』『よ』『な』『ら』と書かれたプラカードを仲間と掲げる者や、スマホやカメラを構えて、終電がやって来るのをいまかいまかと待っている者、缶チューハイ片手に奇声を発している者。とにかくすごい人だかり。サッカー日本代表が勝利したときの、渋谷のスクランブル交差点のよう。配置された警備員や駅員も10人以上確認できる。

踏切の鐘が鳴る前から、警備員は往来を止め、踏切の中に誰も入れないようにしている。踏切の両サイドに、さらにどんどん人がたまっていく。画面から熱気が伝わってくる。3月とは思えない。

踏切が鳴る。これが最後だとは知らないのだろうか。いつもと何一つ変わらない音色に不安になる。最後に耳にするシモキタの鐘の音が、まさかテレビを通した音声になるとは。

降りてくる遮断機を眺める人々の顔が、交互に点滅する二つの警報灯に照らされて赤く染まる。この電車が来れば、シモキタの地上を電車が走ることはもう二度とない。

盛大な拍手と歓声が沸き起こる。最終電車はヘッドライトを輝かせ、勇ましく向かって来た。

「ありがとう!」

「お疲れさま!」

「お世話になりました!」

目の前を通りすぎる電車に向かって、みな手を振ったり、酒をかざしたり、叫んだり。

車両がホームに到着し踏切が開くと、踏切内にどっと人が流れ込む。ハイタッチをする者、電車の写真を撮影する者、クラッカーを鳴らす者も。

お祭り状態。もうこの土地は自分たちのものだと言わんばかりに、踏切内にとどまって騒いでいる。笑顔が絶えない。

やっぱり行かなくてよかった。きっと、そこにいたら同じようにできなかったから。

この騒いでいる人たちは、何がそんなにうれしいんだろう。ここに集まった人たちは、実はみな地下化の工事にたずさわった作業員たちで、自分たちの仕事が完了した喜びを爆発させている。それなら、理解できる。もしくは、この踏切で悲しい事故があって、家族や大切な人を失い、もう二度とあんな忌まわしい事故を起こさせないために地下化を切望していたという遺族の集団だったとしたら、わかる。百歩譲って、記念すべき日だから、ただ見に来たという人たちの気持ちも、まだわかる。

でも、地下化を祝うのはよくわからない。みんな、そんなに踏切のことが嫌いやったんか? 感謝とねぎらいの言葉がたくさん聞こえてきたし、祝っているつもりじゃないのかもしれない。でも、そう見える。そこにいる大半の人は、ただ酒のつまみになるおもしろそうなイベントとして楽しんでいるだけだろ。

誰ひとり、役目を終えた踏切には見向きもしない。これが、悪名高い開かずの踏切の最期か。もう二度と閉まることも、鳴ることもない踏切だけが、黙ってその場にたたずんでいた。

線路と踏切がなくなって9年が経った。今年、駅前の線路跡にテフラウンジという商業施設が完成した。コンクリート打ちっぱなしのおしゃれな外観。洗練された雰囲気が漂う。通路には自由に座れるソファがいくつも設置されている。ベンチではない。ちゃんとしたソファがいくつも置かれているのだ。

日が落ちると、通路にはオレンジ色のやわらかい光を放つ間接照明が灯る。中年の僕が見ても、そのライティングされた光景にはうっとりしてしまう。入っているレストランもカフェもバーも、センスのいい大人の遊び場という感じの店ばかり。2階にはミニシアターまである。いままでこんなのシモキタにはなかった。

先日、このミニシアターで『下北沢で生きる SHIMOKITA 2003 to 2017 改訂版』というドキュメンタリー映画を観た。それは、駅の地下化にともない浮上した、道路計画に反対する人々の戦いの記録だった。

「Save the 下北沢」という運動団体ができたことはもちろん知っていたし、SHIMOKITA VOICEという道路計画に反対する文化イベントが毎年おこなわれていたことも知っていた。でも、僕はそれらに参加したことは一度もなかった。

映画を観ていると、いまではもうなくなってしまったなつかしい店などがちらっと映ったりした。すると、もうすっかり自分でも忘れてしまっていた遠い記憶がどんどんとよみがえってきた。

シモキタに引っ越して来たばかりの、右も左もわからない大学生のころのこととか。もう会わなくなったけど、昔あんな友人がいたなとか。あの店には結局行かずじまいだったなとか。もうちょっとで家なのに、酔いつぶれて道で寝ちゃってたことあったなとか。駅のホームでかっとして、ネックレスを引きちぎって投げ捨ててしまったことあったなとか。あの道で、自転車に乗っていたら車にはねられたことあったなとか。あの人、亡くなる前に連絡くれてうれしかったなとか。

胸が苦しいほど熱くなる。目の前で流れるこの映画の中に、この景色の中に、確かに僕はいた。

シモキタには、ヤミイチと呼ばれるエリアが駅前にあった。正式名称は、下北沢駅前食品市場。でも、そんな呼びかたをしている人には会ったことがない。そこで働いている人も、その場所をヤミイチと呼んでいた。

ヤミイチは、その名のとおり戦後の闇市のなごりをとどめていた。個性的なシモキタの街の中でも、とりわけ特殊な場所。ノスタルジックと言えば聞こえはいいが、トタン屋根の古いバラックの集まり。そこに八百屋、魚屋、乾物屋、服屋、薬屋、立ち飲み屋などが密集していた。

昔、大学の友人に

「最近、シモキタのヤミイチでよく飲んでる」

と話すと、

「あのスラム街みたいなとこ?」

と言われた。そう言われても仕方がない。本当に雑然としているし、薄暗いし、そのエリアだけちょっとにおいもするし。

ヤミイチの立ち飲み屋には、どこもトイレがなかった。用を足したくなったら、ヤミイチの端にあるトイレまで行かなければならない。しかし、そこは男女兼用のくみ取り式だった。いわゆる、ぼっとん便所だ。これは、2014年に取り壊されるまでずっと変わらなかった。そりゃあ、においもする。

「そうそう。あのスラム街みたいなとこ」

自分で口にすると笑えてきた。

ヤミイチには、三好野(みよしの)という飲み屋があった。通称、みっちゃん。こちらも、それがヤミイチでのルールであるかのごとく、誰も正式名称でなんか呼ばない。

まれに三好野と耳にするときのパターンは決まっていた。飲み屋で、酔っ払い同士の会話。

「ふだん、どこで飲んでんの?」

「みっちゃん」

「え?」

「みっちゃん!」

「え?」

「ヤミイチの、みっちゃん!」

「え?」

「み、よ、し、の」

このパターンしか聞いたことがない。

ちなみに、みっちゃんの店主の名は、みっちゃんという。僕のシモキタの師匠プッチンから聞いた話では、三好野だから、みっちゃんという一派と、店主の下の名前がミツグだから、みっちゃんという一派と、三好野とミツグの両方に「み」が入っているから、みっちゃんと呼んでいるという一派と、よくわからないれけど、みながみっちゃんと呼んでいるから、ただなんとなく、みっちゃんと呼んでいる思想のない一派の計4派がいると、教わった。

初めてみっちゃんに行ったのは、大学生のころ。プッチンの店で朝まで飲んでいて、そのあと朝6時くらいに連れて行ってもらった。

みっちゃんは、おだやかな人だった。白髪まじりの口ひげをたくわえ、やせていて、動きもゆったりとしていた。

僕は20歳で、みっちゃんは42、3歳だったはず。なのだが、おじさんというよりは、やさしいおじいさんみたいな印象だった。

みっちゃんが怒ったり、大きな声を出しているところは一度も見たことがない。いつも人の話をふんふんとおとなしく聞いて、小さな声でなだめるように話していた。もしみっちゃんを漫画で描いたとしたら、黙っているときには「ぬぼーっ」、話しているときには「ぼそぼそ」と背景に文字が書かれるはずだ。

みっちゃんは、カウンターだけのちっちゃなちっちゃな飲み屋だった。L字型のカウンターは、6人座ればぎゅうぎゅうに。カウンターの中のスペースは半畳もない。そこにみっちゃんは、閉じ込められたようにずっと腰かけて働いていた。

出典: FANY マガジン
出典: FANY マガジン
イラスト:ピストジャム

僕が道路計画のことを初めて聞いたのは、みっちゃんからだった。僕が25歳のとき。2003年のことだ。

「シモキタにでっかい道路ができるって話、知ってる?」

「知らないです。どこにできるんですか?」

「ここ」

「え?」

「駅前にバスのロータリーつくるらしい。目黒の駅前みたいに」

「嘘でしょ?」

「鈴なりも道路の予定地に入ってるから、たぶんKaeluもなくなるよ」

一瞬で酔いがさめた。Kaeluとは、当時プッチンがオーナーで、僕がバイトしていた鈴なり横丁のバーの名前だ。

となりに座っていた客は、みっちゃんに話しかけて、もう別の話題で談笑している。さっきまでちびちびと飲んでいたウーロンハイの残りを、一気に飲み干す。いつも濃いはずの焼酎が、味がしない。

ここがなくなる? バスのロータリー? 鈴なり横丁も?

シモキタが壊される。得体の知れない、何か大きな力を持った黒い物体に。それは、こちらに照準を合わせて、すでに向かって来ている。いなごの大群に街ごと飲み込まれてしまうような、味わったことのない恐怖を感じた。

どうあがいても避けることはできないんだろうか。ヤミイチも鈴なり横丁も、シモキタの象徴だろ。その二つがなくなったら、もうそこはシモキタじゃないだろ。

想像ができない。プッチンが言う、みっちゃんの由来の話みたいに、どうでもいい冗談であってほしい。空いたグラスの氷が、音を立てて崩れた。となりで話す二人には、その音は聞こえていない。

2013年3月。駅の地下化が完了すると、シモキタは再開発の名のもとに次々と壊されていった。駅の解体から始まり、線路跡など、街のいたるところで工事がおこなわれるようになった。シモキタは踏切の鐘の音の代わりに、工事の騒音が鳴り響く、居心地の悪い街へと変貌していった。

ヤミイチの取り壊しも進んだ。ただ、いくつかの店舗は立ち退きに反対しているのか、まだらにぽつぽつと残されていた。

その解体の技術には、逆に感心させられた。よくもまあ、あんなごみごみした場所で、器用にその建物だけを残すことができるな。

ヤミイチの取り壊しが始まって4年。50軒ほどあったヤミイチの店舗は、一店舗だけを残してすべて取り壊された。何もない、ただの広い空き地となったヤミイチの跡地。こんな光景を誰が想像しただろうか。駅前にぽっかりとあいた広場。本当に何もかもなくなった。あるのは、吹けば飛ぶような貧相なバラック小屋一軒のみ。あんなの、男数人で取りかかれば、道具なんかなくてもまたたく間につぶせるだろう。

井の頭線のホームから、駅前にできた空き地を見おろす。初めて見た人は、誰もあれを店だとは思わないだろう。広場にぽつんとある物置小屋。小さな店だとは思っていたけれど、あんなにみすぼらしくて小さかったんだ。その店は、みっちゃんだった。

鼓膜の奥の、眼球の裏側のあたりが熱くなる。鼻のつけ根も熱を帯び、鼻孔が震えるように少しふくらむ。涙がこぼれそう。もう、見ていられない。目の前の景色がにじむ。戦場にひとり取り残され、ジャングルを抜けた草原で、追手のベトナム兵たちに射殺される『プラトーン』のエリアスの最期を見ているよう。つばを飲み込む音が頭に響く。みっちゃん、もういいよ。十分戦ったよ。あんた、かっけーよ。

2018年の正月、みっちゃんは閉店した。あけましておめでとうございます。ごぶさたしています。お変わりなく、お元気ですか? 僕は、ずるい人間です。情けないです。ただ見ているだけでした。なんにもしませんでした。できませんでした。ただ黙って受け入れるしかないもんだと、最初からあきらめていました。しかも、時間が経つにつれて、新しく変わっていくことを少し楽しみにもしていました。僕は、裏切り者です。いまは、正義の反対って何だろうと考えています。僕みたいな奴が、愛してやまないって、口にしていいのか悩んでいます。頭の中で、誰かが話しかけてくるんです。話し声が聞こえるんです。あの靴、きれいになりすぎて、正直見た目は気に入ってないです。でも、はいてみたらすごくはき心地がよくなっていたんです。あの靴、もともと大好きだったから、やっぱりいまでも好きだし、まだまだ、はけそうな気がするし、これからもっと好きになるかもなって思ってしまってます。合わせる顔がありません。恥ずかしいです。ごめんなさい。

映画が終わると、アフタートークが始まった。この上映会を企画したSave the 下北沢の発起人であり、Never Never Landというバーのオーナーの下平さんと、SHIMOKITA VOICEの実行委員長を務める六弦詩人義家さんがマイクを持って登場した。ゲストは、シモキタのベースヒーローKenKenさん。

 僕は、いつの間にか中断された道路計画のことがずっと疑問だった。なんとなく、いつの間にかそんな計画なくなるだろうと、のんきに思っていたが、本当にあるときを境に工事が進んでいないことが不思議だった。

ヤミイチはなくなってしまった。でも、鈴なり横丁は無事だった。ヤミイチの跡地にも、まだバスのロータリーはつくられていない。

それは、この映画を観て初めて知ったのだが、Save the 下北沢の反対運動が実を結び、2016年に道路計画は正式に凍結されたということだった。第1期の計画は、止めることはできなかった。しかし、第2期、第3期の計画は、完全にストップさせることに成功したのだ。

シモキタを守るために立ち上がり、戦ってくれた人たちのおかげで、いまのシモキタがある。もし、その人たちがいなければ、もっとシモキタは変わっていた。

KenKenさんの実家は、あのニュースで流れていた踏切の、真ん前のビルだった。KenKenさんは、あの夜、歓喜の声を聞きながら、部屋でひとり号泣したという。

世界で一番の街なんて目指さなくていい。

「いまのシモキタのほうがいい感じやな」

そう言い続けたい。


出典: FANY マガジン
出典: FANY マガジン

ピストジャム
1978年9月10日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学を卒業後、芸人を志す。NSC東京校に7期生として入学し、2002年4月にデビュー、こがけんと組んだコンビ「マスターピース」「ワンドロップ」など、いくつかのコンビで結成と解散を繰り返し、現在はピン芸人として活動する。カレーや自転車のほか、音楽、映画、読書、アートなどカルチャー全般が趣味。下北沢に23年、住み続けている。

HPはこちら