肥後久
赤銅色の月が光っていると聞いたが、それを見に外に出ようとは思わなかった。なぜなら、こちらでも不思議なめぐりあわせがいままさに起きているから。
赤らめた顔で、飲み干したヱビスの黒ビールの小ビンを眺める。もし、ラベルの中の恵比寿様のかごに鯛のしっぽが出ていたら、きっとこれは夢だ。
先日、僕のエッセイの刊行記念でピース又吉さんとトークイベントをさせてもらった。場所は、ボーナストラックにあるB&Bという本屋。
B&Bがシモキタにオープンしたのはちょうど10年前。当時は24時まで営業していて、飲んだ帰りに何度か訪れた。初めて行ったとき、実はこの本屋のオーナーは島田洋七さんで『佐賀のがばいばあちゃん』しか置いていなかったらどうしようと思った。
手づくり感満載のこじんまりした店内には、個性的な本ばかり並んでいた。ビールも飲めるらしい。ヴィレッジヴァンガードと、また違った性格の本屋がシモキタに誕生したことに胸がおどった。
その後、B&Bはシモキタの中で2回移転してボーナストラックにやってきた。毎日のようにさまざまなイベントがおこなわれていて、昨年はカレーフェアも開かれた。僕は、本屋なのに本を買わずに「茄子おやじ」のTシャツと「アンジャリ」のロンTを購入した。
こんな本屋でイベントができたら楽しいだろうな。そう思っていたら、まさかできることになった。しかも、又吉さんと。
それはもう夢のような時間だった。僕は、又吉さんの言葉に救われて生きてきた。
『夜を乗り越える』という著書にある「死にたくなるほど苦しい夜には、これは次に楽しいことがある時までのフリなのだと信じるようにしている」という言葉。この言葉のおかげで、希望を捨てずに芸人を続けてこられた。
又吉さんの言葉で、変わることもできた。3年前、浅草で開かれたアート展に又吉さんが参加することになった。僕は、そのお手伝いをさせてもらった。
取り壊しが決まったビルの1室が、又吉さんの展示場だった。本当に住人が出て行ったあとの空っぽの部屋。そこに家具や衣類や生活雑貨を運び入れ、架空の人物である「肥後久(ひごひさし)」という27歳の自称芸術家の部屋を一からつくった。
室内には肥後久の作品が散りばめられていて、会場を訪れた客はその部屋にあがり、彼がつくったいろいろな作品を鑑賞するという体験型のアート作品だった。肥後久は追い詰められて展覧会の前日に逃げ出してしまったという設定で、部屋のいたるところに又吉さんのこだわりが詰め込まれていた。
それらを制作する又吉さんの姿勢と発想に感銘を受けたのはもちろんなのだが、実際に心を撃ち抜かれたのは、ある言葉だった。それは、肥後久が寝ている押し入れの天井に貼られた一枚の紙に書かれていた。
「今日も何もせんと寝るんか」
僕は、この言葉に出会って人生が変わった。2019年3月14日の話。
2022年11月4日。日本テレビのスタジオで、シモキタのカレーについて自分が話している。「スッキリ」の「わたしの推しゴト」というコーナー。
モニターに映る自分の姿。生放送って、こんな感じなんだ。
2017年10月9日、芸名をピストジャムに変えた。いつかカレーの仕事をしたいと思い、この日からカレー激ハマリ芸人と名乗り始めた。
5年経って届いた。誰かが僕のことを見つけてくれた。46maのカレーはスタジオで大好評で、自分のことのようにうれしかった。
2022年11月8日、17時。46maのカウンターでカレーをほおばっていたら、店の前に人影が現れた。
開けっぱなしになった扉の先には、路地に立つひとりの男性。
「シュウくん」
思考より先に言葉が飛び出した。
「え? 何? 知り合い?」
46maのママ、イクさんが目を丸くする。
シュウくんは、僕のとなりに腰かけた。
「ビールください」
16年ぶりの乾杯。彼は、僕がKaeluというバーでバイトしていたときによく飲みに来てくれていた古い友人だ。
年齢も一つしか変わらない。店員と客という関係だけではなく、よく飲みにも行っていた。
「スッキリ観ましたよ」
「マジで? 誰にも言ってないのに」
「全然変わらないですね」
「シュウくんも全然変わらへんやん」
おたがい照れて、顔を見て話せない。
19時すぎ、若い男性が店にすっと入ってきた。
「今日、皆既月食って聞いて、見てたらちょっと遅れちゃいました」
「うちのバイトの子」
イクさんが僕とシュウくんに声をかける。
「はじめまして。吉本で芸人やってるピストジャムです」
「あ。本、読みました。僕も慶應なんで、後輩です」
空になったビンを、空だとわかっているのに持ち上げて口を付ける。もう1杯だけ飲もうかな。
「ピストジャムも、秋月も、森も、イワモも、私は応援してるから」
イクさんがしみじみ言う。彼女とは、もう20年以上の付き合いだ。
秋月と森とイワモの3人は佐賀県の高校の同級生で、かつて吉本でトリオとして活動していた。いまはイワモが抜けて、秋月と森は高校ズとしてソニーで活動している。
20年前、秋月と森はシモキタに住んでいた。イワモはトリオを組む前に、僕と1年間だけコンビを組んでいたこともあった。シュウくんと出会ったのも、ちょうどそのころだ。
「僕、佐賀県出身なんですけど、イワモとは中学の先輩後輩なんですよ。僕が中3のときに、彼が中1で。たまたまシモキタで再会したんですけど、向こうも僕のこと覚えてくれていて」
シュウくんがイクさんに話す。
すっかり忘れていたけれど、そうだった。僕たちは、星が重なるようにシモキタで一つにつながっていた。そして、今宵まためぐり会った。
恵比寿様のかごに、鯛のしっぽは出ていなかった。
「アールグレイ割りください」
やっぱり、もう1杯だけ飲むことにした。
今日も何もせんと寝るんか。肥後久の声がする。俺、今日は帰りたくないよ。
このコラムの著者であるピストジャムさんの新刊が10月27日に発売されました。
書名:こんなにバイトして芸人つづけなあかんか
著者名:ピストジャム
ISBN:978-4-10-354821-8
価格:1,430円(税込)
発売日:2022年10月27日
ピストジャム
1978年9月10日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学を卒業後、芸人を志す。NSC東京校に7期生として入学し、2002年4月にデビュー、こがけんと組んだコンビ「マスターピース」「ワンドロップ」など、いくつかのコンビで結成と解散を繰り返し、現在はピン芸人として活動する。カレーや自転車のほか、音楽、映画、読書、アートなどカルチャー全般が趣味。下北沢に23年、住み続けている。