欲しかったんだもの
先日、シモキタのはずれにあるハラッキというバーに飲みに行った。去年は一度行ったきりで全然行けなかったので、1月中には絶対に行こうと年末から決めていた。
店の入り口は淡島通り沿いのデッキテラス。歩道からテラスに入る二段だけの小さな階段をあがると、ガラス張りになった店内がすべて見渡せる。
オープン直後の19時すぎ、まだ客は誰もいない。戸を開け、テーブル席の後ろを通ってカウンターの真ん中にでんと座る。
「おお、久しぶり。元気にしてた?」
マスターの原さんは、どれだけごぶさたしていても、いつも気さくに迎えてくれる。
原さんはあいかわらずおしゃれだ。今日は白黒のギンガムチェックのシャツに黒のベストを合わせて、びしっと着こなしている。白いあごひげは前回会ったときよりもずいぶん伸びていて、うねうねとウェイブしていた。
視線に気づいたのか、原さんはおもむろにひげをなでる。
「これ、パーマかけてもらったんだよ」
「え! ひげに?」
「知り合いの美容師だからさ、やってよって言ったらしてくれてさ」
いたずら好きの少年のように笑う。たしか原さんは、僕よりひとまわり以上年上のはず。とてもそんなふうに見えない。
飲みなれたラムトニックを注文し、たばこを吸いながら外を眺める。日はすっかり落ちていて、淡島通りを走る車のヘッドライトが流れ星のように目の前を横切っていく。
テーブル席のソファ側の壁は板張りになっていて、額装された絵やポスターが整然と飾られていた。前に来たときよりも、数が増えた気がする。
ここはギャラリーとして使われることもあり、個展が開かれていたこともあった。飲みながら絵や写真を鑑賞できる機会なんてめったにないので、そのときはニューヨークのソーホーでパーティーでもしているような気分になり、少し興奮したのを思い出す。まあ、そもそもアメリカに行ったことがないんだけれども。
カウンターに座る僕が背にしている壁は、コンクリート打ちっぱなしで棚が一段付いている。そこには、酒のボトルや演劇のチラシやちょっとしたフィギュアが置いてある。
棚の上のほうには黒くて四角い木製の本棚も取り付けられていて、のぞくと僕が昨年出した本も並べられていた。原さんが本を買ってくれたことは知っていたけれど、不意に見つけて恐縮する。
「『ザ・メニュー』って知ってる?」
グラスの下に、すっとコースターをすべり込ませるように敷いて酒が到着した。
「知らないです。なんですか?」
「今日、映画観て来たんだよ」
「ああ、映画のタイトルなんですね。どうでした?」
原さんと二人きりで話すときは、よく映画の話をする。学生時代、むさぼるようにレンタルビデオ屋で映画を借りて観ていたので、ある程度は話せる自信があった。
「この本、おもしろいよ」
手渡されたのは、ウェス・アンダーソン監督の『旅する優雅な空想家』という作品集。
ページをめくりながら、
「『ダージリン急行』と『ザ・ロイヤル・テンネンバウムズ』は観たんですけどね」
そうつぶやくと、原さんは目を丸くして
「『グランド・ブダペスト・ホテル』観てないの? そりゃだめだよ」
と、苦笑した。
「一番新しいのはあんまりだったけど『グランド・ブダペスト・ホテル』は最高だったよ。たぶん『グランド・ブダペスト・ホテル』が当たったから、調子に乗っちゃったんだろうなあ」
腕を組み、まるで旧友の話をしているような感じをかもし出す原さんに、思わず吹き出しそうになる。
きっとウェスも、原さんにそう言われたら
「そうなんだよお、原ちゃん。バレた? ちょっと調子に乗りすぎちゃったよお」
と、舌をぺろっと出して頭をぽりぽりかきながら返すだろう。
「あ。この曲、『バグダッド・カフェ』!」
BGMに反応して僕が声をあげると、原さんはにたっと笑って
「やあるねえ」
と、低く渋い声で答えた。
「今日は映画音楽にしたから」
いたずらっ子が何か企んだような表情で笑う。
そこからはクイズ大会。大会と言っても出場者は僕ひとり。原さんが流す映画音楽のタイトルを、ひたすら答えていく。
ラムトニックをごくりと飲んで、耳をすます。たばこをくわえる。
ドン、チャン、チャン。ドン、チャン、チャン。ドン、チャン、チャン。
バスドラムとスネアの音が響く。そこに不穏なクラシックギターの旋律。
「『その男、凶暴につき』!」
「やあるねえ」
先月、シモキタの駅前で誰かがこの曲をストリートピアノで演奏していたのを聴いたばかりだったので、映画のサントラもピアノだと勘違いしていた。ギターだったんだ。それにしても奇妙な音色だ。鼓膜を震わせてくる。シタールみたいだ。
原さんが『20世紀少年』のともだちみたいに、人差し指を立てて、そっとつぶやく。
「ほら、いい曲流れてきたよ」
こちらもクラシックギターの音色。心地いいけれど、もの悲しさをはらんだ美しいメロディ。
「『レオン』!」
「やあるねえ!」
そんなことをして盛りあがっていたら、勢いよく酒屋の男性が店に入って来た。酒の納品と空ビンの回収だ。
何ごともなかったそぶりをして、静かに酒を飲む。
「来週は天狗まつりで、烏天狗のおつきしないといけないんですよ」
手際よく作業する男性が口走った言葉を、僕は聞き逃さなかった。
「か、烏天狗のおつきするんですか! あの、あの、あの天狗の顔した赤い手袋って、今年売ってます? 僕、あの手袋大好きで、たぶん引っ越したタイミングでなくしてしまったと思うんですけど、あの、こう親指を立てると親指が天狗の鼻になって、この手の甲のとこに天狗の目が付いてて、親指だけ出して手握ったら天狗の顔になるっていう手袋なんですけど」
「わかります」
「わ、わかります!? あれ僕、天狗まつりのたびに売ってたら絶対買おうと思ってずっと探してるんですけど全然売ってなくって、そう思ってたらコロナになって天狗まつりもやらなくなったりして、今回はやるって聞いたんで天狗まつりのホームページめっちゃ見てるんすけど、あの手袋はグッズ販売のところに載ってなくって、どこに行ったら買えるんかなって思ってて!」
クールにキメていたのに、台なしだ。いてもたってもいられず、ものすごい勢いで話しかけてしまった。
「あれは、もうつくってないですね」
かなり大きな声を出してリアクションしてしまったんだろう。二人とも引いているのがわかった。天を仰ぎながら、これは『世界の中心で、愛をさけぶ』みたいだなと思った。
このコラムの著者であるピストジャムさんの新刊が10月27日に発売されました。
書名:こんなにバイトして芸人つづけなあかんか
著者名:ピストジャム
ISBN:978-4-10-354821-8
価格:1,430円(税込)
発売日:2022年10月27日
ピストジャム
1978年9月10日生まれ。京都府出身。慶應義塾大学を卒業後、芸人を志す。NSC東京校に7期生として入学し、2002年4月にデビュー、こがけんと組んだコンビ「マスターピース」「ワンドロップ」など、いくつかのコンビで結成と解散を繰り返し、現在はピン芸人として活動する。カレーや自転車のほか、音楽、映画、読書、アートなどカルチャー全般が趣味。下北沢に23年、住み続けている。