3人の南米サッカー留学芸人が語るハチャメチャ奮闘記「ずっと夢を持ってサッカーを続けてた」

さまざまなバックグラウンドを持つ吉本芸人のなかには、南米でサッカー経験がある芸人が、奇しくも3人います。『エンタの神様』(日本テレビ系)でブレイクしたピン芸人のですよ。、「ダンソン」ネタでお馴染みのバンビーノ・石山タオル、そして現地でプロチームにまで所属したオチャニゴス・マリン――今回はこの3人が集まり、南米に向かった経緯や現地での苦労、痛感した世界の壁など、経験者ならではの“リアル”なサッカー談義に花を咲かせました。

出典: FANY マガジン

三者三様のバックグラウンド

――3人はそれぞれ若いころ、夢と情熱を胸に抱いてサッカー大国・南米の地に降り立ったわけですが、まずは留学までの経緯から。ですよ。さんがサッカーを始めたのは、いつごろですか?

ですよ。 高校生になってからです。小学生からやりたかったんですけど、いじめっ子から「野球やろう」って言われて、野球をやって、中学でサッカーやろうと思ったら、クラスのリーダーからバスケット部に誘われて、バスケをやって……。それで、ようやく高校から始めました。

――(笑)。ボリビアに留学したのは約27年前とのことですが、ネットもなく情報も少ない時代に、なぜボリビアへ?

ですよ。 最初はブラジルに行きたかったんですけど、仲介業者に「600万円かかる」って言われたので、自分で探しました。サッカー雑誌の編集部に電話して聞いたら、「ボリビアがいいんじゃないか」って教えてもらって。高校の卒業式を終えた夜に、飛行機に乗って行きました。

――すごい行動力ですね……。石山さんはブラジルに留学ですが、やはり小さいころから憧れが?

石山 サッカーを始めたのは小学1年なんですが、文集に「ブラジルに行きたい」って書いたくらい憧れてました。当時、Jリーグ・鹿島アントラーズに所属してたジーコ(元ブラジル代表、元日本代表監督)が好きで、ずっとその夢を持ってサッカーを続けていた感じです。

(出身地の)愛媛県代表になって、四国選抜になって、だけど高校2年でケガをしてしまうんです。そこで1回、サッカーを辞めて大学へ入学しました。

ただ、“ブラジルに行きたい”っていう夢だけが残っていたので、大学の第2外国語でポルトガル語(ブラジルの公用語)を専攻して、(現地で)日本語教師になりたいという気持ちもあったので、ブラジル・サンパウロに留学したんです。

出典: FANY マガジン

――“信念”を貫いてブラジルに行ったんですね。パラグアイに渡ったマリンさんは、どういう経緯だったんでしょうか。

マリン 川口能活選手(元日本代表の正GK)に憧れて、小学1年から18歳までゴールキーパーをやっていました。唯一の問題が、僕は165センチしかなくて、上にシュート打たれたら入っちゃう。だから、チームメイトからもバカにされてたんですよ。控えのゴールキーパーだったし、どうしようかなって思ってました。

そのころ、『俺たちのフィールド』(小学館)っていうサッカー漫画を読んでたんですけど、主人公がアルゼンチンに行って覚醒するんです。だから、南米に行けば主人公みたいに覚醒できるんじゃないかって……。

石山 三者三様(笑)。

マリン ただ、ネットで検索したら、アルゼンチンのサッカー留学ってブラジルと一緒で高い。お金を出すのは親なので、悪いと思ってたら、少し安いパラグアイ留学っていうのを見つけて。それで行ってみようって。

――いつ旅立ったんですか?

マリン 高校卒業して翌日に。

一同 (ですよ。と)一緒!

やりたいことだけやって30歳で死んでもいいや

【ですよ。の場合】
ポジション:FW
渡航先:ボリビア
期間:4年

出典: FANY マガジン

――ですよ。さんのボリビア留学は、始めから順風満帆だったんですか?

ですよ。 始まりはボリビアに向かう途中、ブラジルのサンパウロの空港で、(トランジットのため)待合室で待っているとき、日本人っぽい人に話しかけたんです。それが韓国の方で、「日本人を紹介してあげるよ。ボリビアのこのホテルで待ってて」と言ってくれたので、待っていたら、本当に日系人を紹介してくれて。

その日系人とルームシェアしていた方が、ボリビアでプレーしてるブラジルのサッカー選手で、そのチームに入れてもらいました。

石山 (自分のブラジル経験に照らしても)めっちゃ怖いと思うんやけどなあ……。とんでもないですよ(笑)。

――サッカーを始めてまだ3年で、ツテもないまま留学。不安はなかったんですか?

ですよ。 僕、好きなことをやりたい派なんですよ。お笑いも好きで、高校のとき、文化祭で一緒に漫才をした友だちに「卒業したら吉本入ろう」と誘ったんですけど、「なにを本気にしてんだよ」「イヤな仕事でも(定年の)60歳まで働かなくちゃいけないんだよ」って言われて。

僕、それがすごくイヤで、やりたいことだけやって30歳で死んでもいいやって思ってました。そもそも日本から留学する人はみんな、単にサッカーがうまいから行くんじゃなくて、サッカーが好きでチャレンジしたいという気持ちが強いから行くんでしょう。英語がしゃべれないからカナダに行くようなものです。

出典: FANY マガジン

――結局、ボリビアにはどれくらいいたんですか?

ですよ。 アマチュアのチームに4年くらいいました。(チームの年齢制限で)22歳を超えると年齢がオーバーしちゃうので、そこであきらめました。

――プロを目指していたんですよね? 年齢を重ねてもチャレンジを続けようとは?

ですよ。 いやー、できない。やっぱり22歳超えてプロになってなかったら、もう無理です。

――厳しいんですね……。

石山 だから、カズ(三浦知良)さんはすごい。

――50歳を超えていまなお活躍する三浦知良選手(横浜FC)は、若干15歳で単身ブラジルに渡って、名門サントスFCとプロ契約を結んだんですよね。

ですよ。 ブラジルとか南米に行く人は、みんなカズに憧れてますよ。

石山 やっぱり、実際に行くと「ここに15歳で来たん? ひとりで勝ち上がってプロになったん?」ってなっちゃいますよね。

出典: FANY マガジン

――ですよ。さんのボリビア留学話は、ニューヨークのYouTubeチャンネルや、『激レアさんを連れてきた。』(テレビ朝日系)で話していたくらいで、ほかではあまりしていませんよね?

ですよ。 (持ちネタの)「あ~い とぅいまて~ん」以外で世に出たくないんですよ。

一同爆笑

――“芸で売れたい”ということですか?

ですよ。 『エンタの神様』に出たのが2007年で、翌年くらいに友だちの結婚式の2次会でネタをやったんです。いまもやってる、「ヤドカリだと思って助けたら、チョココロネだったんですよ」っていうネタなんですが、これがぜんぜんウケなくて……。

そのあとみんなで飲んでるときに、ある男の人から「ぜんぜん面白くないじゃん。これじゃメシ食っていけないでしょ?」って言われて、そこからサッカーのこと言うのやめようと思いました。「ヤドカリだと思ったら~」だけで、売れようって。だからネタもそれしかやらないんですよ。

石山 すごい話やなぁ(笑)。

一瞬で「勝たれへんわ」って思いました

【バンビーノ・石山の場合】
ポジション:FWほか
渡航先:ブラジル
期間:半年

出典: FANY マガジン

――石山さんの場合、ブラジル留学は、もともとサッカーが目的ではなかったんですよね?

石山 そうです。ブラジルでは、ケガもあったんで趣味程度でサッカーをしていたんですが、そこで元日本代表の山瀬功治選手(現在はJリーグ・愛媛FCに所属)を教えていた人と知り合ったんですよ。「明日、練習に来いよ」って気軽に言われたんですけど、そこが、かつてサンパイオ(元ブラジル代表MF、Jリーグの黎明期にも活躍した名選手)がいたチームで、コーチが元ブラジル代表の選手だったんです。

いざゲームに参加したら、とにかくパスが回ってこなくて……。挑発も散々されたんで、ボールが転がってきたときに、思いっきりシュートしたら、たまたまいいゴールになったんです。そこからパスが来だして、そのゲームで2アシストしたら、コーチが「明日からおいで」って言ってくれて。

――すごいチャンスじゃないですか!

石山 ただ、そのチームにはU-18のセレソン(ブラジル代表の愛称)に入っていた選手や、名門サンパウロFCの元右サイドバック、あるいはJリーグ・ヴェルディ川崎にいた選手がいたり。2006年ごろの話なんで、細かくは忘れちゃいましたが――。

ですよ。 オレが『エンタの神様』に出ていたころじゃん。

――(笑)

石山 とにかくすごいヤツらがたくさんいて、一瞬で「勝たれへんわ」って思いました。ずっと練習に参加していましたけど、マジで、プロにならなくてよかったって思いましたね。

あと当時、イタリア・セリエAで活躍していた“怪物”アドリアーノ(元ブラジル代表FW)が、自主トレしてるところを見たことがあるんですけど、走ってる姿は「軽トラ」みたいでした。190センチくらいあって、体もゴツくて、こいつとぶつかったら吹っ飛ばされるって思って……。そういうのを見て、どんどんプロになるのを諦めていきました(笑)。

出典: 本人提供

――やはりプロとの差は大きい?

石山 サッカーもそうなんですけど、環境でも敵わないって思いましたね。アルゼンチンに住む小学1、2年生くらいの子どもたちとサッカーをする機会があったんですけど、僕がボールを持ったときに驚くことがあって。

日本だと、ボールが動いたらボールに集まってしまう子がほとんどじゃないですか。でも、アルゼンチンの子は違って、僕がボールを持って攻撃側になったとき、パスでチャンスを作られるのもイヤだし、ドリブルでまっすぐ攻められるのもイヤだし、ということで、じつに絶妙なポジションに立って守備をするんです。

――子どものころからセンスが刷り込まれている、と。

石山 そう、アルゼンチンの子どもは、小さいころからお父さんに連れられて、めちゃくちゃレベルの高いサッカーを観ているから、絶妙なポジションに戻るのがふつうのこと。日本でも指導はされるんですけど、そうした教育を受ける前に、自然とポジションに戻ってるんですよね。

そう思ったときに、観ているサッカーが違うんだなって思いました。その時点で、(日本のサッカーは)何周も遅れちゃってるんだろうなって。戦術理解度として、高校生でもそういうことわからんヤツおったなって(笑)。

出典: 本人提供

――そんなこんなで日本に戻ってきたわけですね。

石山 就職活動があったので帰国したんですけど、同級生はみんな就活が終わってて……。どこにも行くところがなかったので、いちばん安い専門学校を探したら、NSC(吉本総合芸能学院)が見つかったので、1年だけやってみようと思って、いま14年ですね。

――もともとお笑いは好きだったんですか?

石山 ぜんぜんです。中学3年のときに初めてオーストラリアに行って、そこからサッカーでいろんなところに行かせてもらっていたんで、海外で仕事をするもんやと思ってたんです。みんなが『すんげー!Best10』(ABCテレビ)とか『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ系)を見てるとき、僕、(アメリカの)アニメの『ザ・シンプソンズ』を見てましたから。

出会ったのはチラベルトの弟…!?

【マリンの場合】
ポジション:GK、DF
渡航先:パラグアイ→ボリビア
期間:8年

出典: FANY マガジン

――マリンさんのパラグアイ留学は、どうだったんですか?

マリン 僕の場合、留学の仲介業者の社長さんが、福田健二さん(Jリーグのほか、パラグアイやスペインなどで活躍)、廣山望さん(元日本代表、パラグアイでも活躍)の代理人をしていた方でして、そのツテもあってパラグアイに。

オリンピア・アスンシオンっていういちばん有名なチームがあるんですけど、そこのU-20のテストを受けさせてもらいました。

石山 一気にそこを受けられるってすごいですよ。

マリン 最初は、日本人で小さなゴールキーパーなので、バカにされました。ただ、南米の選手って、めちゃくちゃ強いシュートでゴールするのを美徳としていて、あんまり高い角度のシュートが来なかったんです。そこでいっぱい止めたっていうのもあって、チームに入ることができたんです。

それで第3GKとして所属するんですけど、(キーパーはあまり交代がないので)試合に出られるわけじゃない。当時、50メートルが5.8秒で足だけは速かったんで、コーチから「キーパーじゃなくてフィールドをやれ」って言われてコンバート(ポジションの変更)することになりました。

出典: 本人提供

それからフィジカルコーチの家にホームステイさせてもらって、毎日、“パラグアイサッカーとはなんたるか”を教えてくれて。その人が、もともとオリンピアの右サイドバック(DF)の選手だったこともあって、僕が右サイドバック選手の身体になれるよう徹底的に作ってくれたんです。それをきっかけに、そのポジションでプレーするようになりました。

石山 海外に行って、そんなことってないですよ。直属のコーチの家に住まわせてもらって……。

マリン でも結局、上のサテライト(プロの2軍チーム)には昇格できなくて。そのあと、パラグアイの4部リーグチームの入団テストに合格したんで、移籍することになったんです。

そのころにはフィジカルコーチの家には住めなくなっていて、それからホテル暮らしだったんですけど、当時のホテルの支配人が、チラベルト(元パラグアイ代表の名GK)の弟とすごく仲が良くて……。

一同 すごい(笑)!

マリン 「住むところを探している」って話をしていたら、チラベルトの弟が実際に来てくれて、「俺の家には住まわせられないが、いとこの家ならある」と。そのチラベルトのいとこも、1990年に日本で開催されたトヨタカップ「オリンピア VS ACミラン」に出場した選手だったらしいです。

結局、合計で4年くらいパラグアイにいたんですけど、うまくいかなくて、やっぱり日本に帰って別のことをやろうかと考えていたところ……当時のチームメイトから、「ボリビアにテストを受けに行くから一緒に行こうよ」って誘われて。テストを受けに行ったら受かっちゃって、そのチームに入ることになった、という流れです。

出典: 本人提供

――それでボリビアに渡るわけですね。その後、引退したきっかけはケガだったとか……。

マリン 理由は、もう一つありまして。当時、ウルグアイ人のチームメイトがいたんですけど、彼は小さいころから、レコバ(世界的に活躍した元ウルグアイ代表FW)の控え選手だったらしくて。

スペインの2部リーグでプレーしたのちにボリビアに来たんですけど、これがめちゃくちゃウマいんですよ。それで、この人ですらボリビアのチームで甘んじてるということは、俺はダメなんじゃないかって思って。ボリビアでも4年やって、26、7歳くらいのときに引退を決断しました。

石山 結局、人を見て挫折するよな。だからカズさんがすごいって思うんですよ。そういう挫折が絶対あったはずなのに、あきらめずにそのままサントスFCに入るなんてできない。

出典: 本人提供

――そこまで本格的にサッカーをやって、なんで芸人になったんですか?

マリン 日本に帰ってきたときに、(学生時代に)自分をバカにした子たちが、起業して金持ちになってて、そこで、なんのために留学に行ったんだろうって思って(笑)。

そのときに、サッカー以外に何が好きだったか考えたら、コントだったんですよ。コントをやりたいからお笑いに入ろうと思って、松竹芸能の養成所に入って5年やったあと、NSCに入って昨年、卒業しました。そして、いまに至るわけです。

石山 今日、初めて2人の話を聞きましたけど、(境遇が)“似ているだろうな”と思っていたら、僕とはぜんぜん違いました。でも、ネジが1個外れているところは一緒でしたね(笑)。

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