この6月、オーディションバトルを勝ち上がり、76歳にして東京・神保町よしもと漫才劇場の所属芸人となって、またたく間に時の人となったピン芸人「おばあちゃん」。71歳でNSC(吉本総合芸能学院)入学、72歳から活動を始めてまだ芸歴5年ですが、誰もが気になるのが、なぜその歳で芸人になったのか――ということ。またたく間に時の人となった超異例の“若手”芸人が歩んできた、文字通りの「波乱の人生」に迫りました!
仕事、乳がん、介護…波乱の半生
――今回、オーディションバトルを勝ち抜いて神保町所属となったということで、注目を集めていますね。
そうなんです。びっくりなんです。
――芸歴5年目だそうですが、これまでどのような人生を歩んできたのでしょうか。若いころはどんなお仕事を?
計器などの設計をしておりました。
――設計! しかも計器! それは、すごいですね。
いえいえ、当時は中学しか出ておりませんで。4人兄弟の女1人で、家が貧しかったので、「学校に行かせてほしい」とお願いしても、母が「女はそんなことしなくていい」と言うので、いったん事務職に就いたんです。
でも、親におカネを入れながらでも手に職をつけたいといろいろ調べて、職業訓練校でおカネをもらいながら勉強させていただきました。それで、水道やガスの配管だとかの図面関係の仕事をやるようになって。最初はトレーサー、要は図面を写す仕事ですね。それからフリーハンドで書かれたものを製図化していく製図屋もやりました。
――ご主人とはどちらで知り合ったんですか?
親が決めたんです。そういう時代でしたから。子どもがほしかったので、しばらく仕事もお休みしましたけど、無理だとわかりまして。それでまたお勤めを始めました。今度は造船の仕事。
まわりは超エリートなので、私は使い走りで。でも、そんなエリートの方もたまにはミスをされるんですよね。やっぱり、机で書いているのと現場とは違うんですよ。そこで私は現場に行かせてもらってお話を聞き、図に反映したりしていました。
――そんななか、30代で乳がんを患ったとか。
38歳のある日、胸に違和感を覚えて。それまで風邪ひとつひいたことがなかったので、まさかと思いましたけど、調べたら乳がんのステージ4でした。当時は治療法もいまほど確立されていませんでしたから、けっきょく胸を取って、人工胸を付けることになりました。
そのときに、お医者さんにはわからない女性だけの苦しみがあると知ったんです。人工胸をつけていると、汗がすごいんですよ。だからそれをなんとかしたいと、47歳で放送大学に通うことにしました。「女の子は行くことない」と言われたけれど、私の人生なんだからいつか絶対に行くぞと心に決めていたんです。
そういうわけで入学して、卒業論文は乳がんの術後の発汗量について書きました。といっても、基本ができていませんからね、教授に「『作文』と『論文』は違うのよ」と言われながら、先生のご自宅に泊まり込みでデータを取って、先生がご飯を作ってくださってね。
――本当にすごいですね。仕事は定年まで続けたんですか?
派遣で、64歳まで勤めました。設計部、CADチームとか、資材のバイヤーとかもやりましたね。IT化になる境の時代でしたから図面の電子化とか。IT関係は弱かったんですが、まわりに助けられながら。
――少し前から、失明したお兄さまの介護もしているそうですね。
兄が、片目が見えにくいというので通っていたんですが、調子がいいというので少し間を空けているうちに悪化して……何度も手術しました。先進医療ですからおカネがかかりましてね。でも主人が兄とすごく仲がよくて、「何があっても、俺が面倒をみる」と。いま兄は施設に入っていて、主人がいたから兄は助かったんだと思います。
――ご主人とお兄さんの仲がよかったことが幸いしたんですね。
若いころ、主人の耳が聞こえづらくなって。でも、おカネがなくて困っていたときに、兄が黙っておカネを出してくれたことがあったんです。
――いまはご主人の耳は?
大丈夫なんですけど、今度は歳で聞こえづらくなっていますね(笑)。
処方箋の切れ端に吉本の電話番号
――波乱万丈の人生だったわけですが、その後、芸人の道に進むことになるんですね。
64歳で仕事を辞めたときに、今後は好きなことをしたいと、主人と話し合いました。でも、直後に膝の手術をしまして。ボルトを抜いてリハビリが終わるまで、2年くらいかかってしまいました。
そのころに、杖をつきながら高齢者劇団の公演を見に行って感動しましてね。中学時代、演劇部だったものですから、「私もこういうことをやりたい!」と思いました。
――やりたいことが見つかったんですね。
はい、それで劇団に問い合わせたんですが、劇団でやっていくにはおカネがすごくかかるんです。「年金でカツカツなんです」と伝えたら、「じゃあ、ゲスト出演で」と言っていただいて。高齢者ばかりの劇団なので、出演者が体調を崩すんですよね。そういうときに代役で立ったりして。
おもしろいなあと思ったんですが、劇団だと身内になにかあってもすぐに行けないんです。ちょうど公演が始まるときにお母さんが亡くなられた方が駆けつけられない姿を見て、これは難しいなと思いました。
――なるほど。
その劇団に出ていたころに、演劇用語がぜんぜんわからなくて、インターネットができる友だちに「そういう勉強ができるところがあったら教えて」とお願いしていたんです。そうしたらある日、その友だちが、薬の処方箋の切れ端に電話番号を書いたものを持ってきてくれました。電話してみたら、それが吉本の作家コース(YCC)の番号だったんです。
――それで吉本に。しかも作家コースだったんですね!
お笑いにも興味があったので、「お笑い志望です」と伝えてNSC(吉本総合芸能学院)の番号を教えてもらいました。それで電話して「70歳なんですけど」と伝えたら、「大丈夫ですよ」と。でも、そのときはまだ劇団に出ていましたから、1年でけじめをつけて、それでもう1回、「本当に大丈夫なんですか?」と電話したんです。そうしたら(NSCのある)神保町に呼んでいただけました。
――お友だちからの電話番号が、運命の分かれ道だったんですね!
はい。でもお笑いは好きで、若いころは「お前ら吉本行け!」なんてよく言われていたんですよ。
面接は40代とか50代の方ばかりで、「シルバー向けのグループに入るのかしら」と思って入学式に行ってみたら、まわりはみんな10代、20代でした。
――日々の授業を受けるなかで、同期の人たちとの間にギャップは感じませんでしたか?
もう、わからないことだらけ。“腰パン”をこしあんのあんパンだと思っていたくらいですから(笑)。でも、まわりの子がみんな親切でね。
NSC生はエレベーターを使わず6階まで登らなきゃいけないんです。でも授業がいっぱいあると大荷物で、そうしたら同期の子たちが「持って行ってあげるよ」って荷物を持って、「おばあちゃん通るぞ!」って声をかけてくれたり。体操着を買いに行こうとしたら、心配して6人くらいついてきてくれたこともありました。
――優しいんですね。
辞めてしまった子も含めて、同期のみんなはいまでも宝ですね。おかげでNSCは皆勤でした。ただ、ダンスの授業だけは無理でしたね。先生から3カ月で「危ないですから」と免除されました(笑)。
94歳の友人が劇場に応援に!
――おばあちゃんはいまピンで活動していますが、コンビを組もうと思ったことはありませんでしたか?
若い人の将来を邪魔したくないですからね! 在学中、18歳の男の子が「僕、介護の仕事やってるから」と声をかけてくれてね。でもさすがに18歳は……と思って断りました。その後、50代の男性と3カ月ほどお試しで組みましたが、ネタ合わせで帰宅が遅くなり体力が持ちませんでした。
――ネタ作りも初めての経験だったのでは?
わからないなりに書いてみたら、「小学生の作文じゃないんだから」と言われましたね。でも、まわりを見て少しずつ作れるようになりました。けっきょく私はネタじゃなくて、現実を書いているんですよね。
――おばあちゃんのネタには川柳が登場しますが、川柳は昔からやっていたんですか?
いえいえ、ネタ見せで、山田ナビスコさんという作家さんが言ってくださったんです。その方がいらっしゃらなかったら、いまの私はなかったと思います。
ただ山田さんに言われたとおり、川柳をネタに入れてみたものの、物忘れでネタ中に川柳が思い出せないという問題が起こりました。それで「しょうがないから書いちゃえ」と言っていただいて、川柳を短冊に書くようになったんです。ほかにも、「自分に関係するネタ作りをしたほうがいい」とアドバイスしていただきました。
――なるほど。そうした山田さんのアドバイスもあって、病院の話など、ふだん感じていることがネタになっていったわけですね。ご主人はネタをご覧になったことは?
私たち夫婦の最初の約束は「協力はできないけど邪魔もしない」ということでした。独立独歩でやっているので、見には来ないですね。でも、部屋で練習しているのは聞いているんじゃないですか。
――お友だちはどうですか?
このまえ94歳の友だちが杖をつきながら、無限大ドーム(東京・渋谷にある吉本の劇場)に観に来てくれました。
――すごいですね!
しゅんしゅんクリニックPさんの単独ライブに出させていただいたときだったので、いちおう先生に「94歳の友人が来ます」と伝えておいたんです。そうしたら本番でしゅんP先生が「何かあったら救急車呼ぶんで、そのときは皆さん通路を空けてください」と言ってくれて。でも、当の本人は耳が遠くて、ちゃんと聞こえていなかったみたいです(笑)。
好きなネタで予期せず勝ち抜いたバトル
――6月に激戦のバトルライブを勝ち抜き、神保町劇場のレギュラーメンバーになりました。
山田さんには「おばあちゃんは無理をしないで、自分のペースでやればいい」と言われていたので、私もそのつもりでいたんです。でもバトルライブに出演はしますので、山田さんに「どんなネタをやればいいですか?」と聞いたんですよ。そうしたら、「自分は審査員をしていて、みんな平等にしないといけない立場だから言えないけれど、とにかく自分の好きなネタをすればいい」と言われて、それでやったのが川柳の医者シリーズのネタでした。
――それが思いのほかウケて合格となった。
じつはバトルライブに出たときは、「夜遅いと危ないから」ってネタが終わった時点で帰らせてもらったんですよ。だから、エンディングで発表される結果を聞いていなくて。次の日にまわりの子に「おめでとう」と言われたんです。自分の好きなネタを信じてやったことが結果につながって、とても嬉しくて。はじめての経験でしたので驚きもありました。その後も次のバトルに出演して、また途中で帰って……を繰り返して。
――神保町の劇場所属決定後は、大きな反響があったようですね。
とてもありがたいお話です。ただ、“腰パン”の意味もわかっていなかった私ですから、「バズってるよ」と言われても、インターネットがわからなくて。同期の子が送ってくれた画像を、いちおう主人に「お父さん、バズってるって」と見せましたけど。
――ご主人はなんと?
お父さんもよくわからないから「まあ、頑張れや」と言ってくれました(笑)。でも、いろいろと協力はしてくれるんです。今日も朝早かったから「ご飯作ったからな」と言ってくれたし、帰りも途中で電話を入れると、お風呂をわかしてご飯の支度をしてくれるので助かります。
――優しいですね!
まあ、流しはビチャビチャだし、散らかし放題なんです。でもやってもらっておいて文句は言えないから、「ありがとね。助かるわ、お父さん」って。ご飯も「おいしいね、もうちょっとだけ味が薄いともっとおいしいかもね」なんて言いながらね(笑)。
――(笑)。最後に、芸人としての夢を教えてください。
笑いを通じて世の中のためになりたいです。兄はいま施設で大事にしていただいていますし、自分もいつかそういうところに行かなきゃいけなくなると思います。そういう方々の応援ができたらうれしいですね。