インドネシアで超有名な日本人・加藤ひろあきの“あたりまえ”じゃない芸能活動と結婚と人生!

世界には、現地では超有名人だけど日本ではそれほど知られていない、という日本人がいます。インドネシアでマルチに活躍するミュージシャン・加藤ひろあき(38)もその1人。最近ではバラエティ番組『マツコ会議』(日本テレビ系)でも取り上げられましたが、こんな面白い人物を知らないのはもったいない! ということで、今回は芸人ライターとして活動するビスケッティ・岩橋淳が、その人生に迫りました。

出典: FANY マガジン

『マツコ会議』出演で現地はフィーバー

世界は広いです。海を越えて山を越えると我々の知らない世界が広がっています。そこには国境を越えて活躍している日本人がいます。今日はそんな1人をご紹介します。

初めまして。ラフマガで芸人ライターとして活動しています、ビスケッティの岩橋です。あ、そんなそんな。お気になさらず。楽にしてください。

さっそくですが、海外で活躍している日本人といえば、誰を思い浮かべますか? 恐らく、スポーツ選手やミュージシャンが多いかと思います。そのなかで、実際に音楽活動を軸にマルチな才能をいかしてインドネシアで活躍している人がいます。それが今回ご紹介させていただきます、加藤ひろあきさんです。

もともと日本で音楽や舞台などの芸能活動を行っていた加藤さんですが、2014年に活動の拠点をジャカルタに移し、いまやミュージシャン、タレント、俳優、地元テレビ番組の司会者、通訳、翻訳……さらには「よしもとクレアティブインドネシア」の代表として現地で活動するタレントのマネジメントもするなど、とにかく幅広く精力的に活動しています。

出典: FANY マガジン

実は、2013年にCOWCOWさんの「あたりまえ体操」のインドネシア語翻訳を手掛け、現地で大ヒットさせたのも、この人です。今年1月に放送された『マツコ会議』で、“海外で活躍する日本人”として現地の人気ミュージシャンの奥様アリーナさんと一緒に出演したのを見た人も、いるかもしれません。このときは、インドネシアの現地メディアでも「日本の人気番組に出た」と大々的に取り上げられて、大フィーバーだったようです。

そして、つい先日の4月23日(金)には、日本とインドネシアの友好関係や理解促進などに貢献したことが評価され、なんと、駐インドネシア大使から「在外公館長表彰」を受賞しました。

そんなインドネシアの超有名人、加藤さんにインタビューをさせていただく機会を得たので、ネホリハホリお話を聞いてみました!

出典: FANY マガジン

「あたりまえ体操」をインドネシア語に!

――あの「あたりまえ体操」をインドネシア語に翻訳したんですね!

それまでのインドネシアにはない日本独特な笑いだと思うんで、なんとか現地で火をつけたいと思っていました。翻訳するときに意識したのはインパクトです。「あたりまえ」をいかに自然な表現で訳すか、悩みに悩んで思いついたのが「イアイアラ」という言葉。インドネシア語で「そりゃそうだろ!」という意味なんですが、インパクトもあるし、意味もぴったりで、「これはイケる!」と思いましたね(笑)。

実際、ありがたいことに大ブームになって、現地の人が自分たちで動画を投稿するほどに! COWCOWさんがインドネシアを9回も訪問することになって、自分にとっても移住を考える大きなきっかけになりました。

——本業のミュージシャンとしては、どんな活動をしているんですか?

アコースティックギターの弾き語りスタイルでずっとやってきました。ジャンルでいうとポップス。それをインドネシア語と日本語と英語の3つの言語で歌える、というのを柱にしてます。僕の武器は、インドネシア人のようなネイティブの発音で歌えることです。だけど風貌は外国人、というギャップがうまくハマったんでしょうね。

もともとミュージシャンとして現地で話題になったのは、インドネシアで誰でも知っている大ヒット曲を日本語に翻訳して歌ったことです。アーティスト本人が、自分の曲が日本語になっていると面白がって、SNSなどで紹介してくれたんです。

出典: FANY マガジン

——3つの言語で歌えるのはすごいですね! 活動の場にインドネシアを選んだのは、なぜですか?

大学時代(東京外国語大学)にインドネシア語を専攻していたんです。インドネシア語にしたのは、人気の英語やスペイン語などに比べて入試の倍率が低かったからなんですけど(笑)。卒業後は、音楽や舞台、ミュージカルなどの芸能活動をやっていたんですけど、鳴かず飛ばずで……。30歳になったときに、“これから40歳までの10年間、どこで勝負をしたいか”と考えて、インドネシアならば自分の持ってるものを活かせるのではないかと思って移住しました。

妻は現地の人気バンドのボーカル

——そこから大活躍で、2019年には奥様のアリーナさんと結婚しました。『マツコ会議』にも2人で出演していましたが、どういう経緯で知り合ったんですか?

僕の奥さんもミュージシャンで、インドネシアの「MOCCA」というバンドで僕よりぜんぜん有名なボーカリストなんです。僕は、もともとMOCCAのファンでライブも観に行ったりしてて。それでダメ元で、SNSでメッセージを送ってみたら返ってきて、そこからコンタクトを取り始めて。紆余曲折ありまして結婚しました。

——その「紆余曲折」が聞きたいんですよ! 加藤さん!

最初に出会ったのは、僕が現地に留学していた2008年なんです。結婚したのが2019年だから、出会ってから11年ほど経ってからですね。最初に出会って、お互いにいいなと思ってたんですけど、タイミングとかも合わなくて。そのころMOCCAはインドネシアで大活躍していたし、僕は日本の大学院に戻って必然的に遠距離になりますし。それに、僕は一般のただの大学院生で、相手は大活躍しているバンドのボーカルで。なんか……釣り合わないというか、ビビっちゃって、僕が。それで1回、お別れしたんですよね。

そうしたら、アリーナがアメリカの方と結婚しちゃって、アメリカに住むことになったんです。

出典: FANY マガジン

――えっ!?

その間の6年、僕ら1回も連絡取っていません。それが、2014年になって僕がジャカルタに移住した後、奥さんが離婚してインドネシアに帰ってきて。MOCCAがまた始動するという発表で「あれ? アリーナ戻ってきてるんだ」と思って、もう1回連絡を取って7年ぶりに再会して……そこから意気投合して、また付き合って結婚しました。

——それは……だいぶ紆余曲折ですね(笑)。プロポーズは、どんな言葉だったんですか?

ドラマチックなことを言えればよかったんですけど……実は、プロポーズの言葉がなくて。なぜかというと、国際結婚って書類がいろいろ必要なんですよ。それで、そろそろ結婚も考えなきゃね、という話はお互いにしていたんで、まずは書類を集めようかと動き始めたら、なんと2週間くらいでできちゃって(笑)。

しかも、書類の有効期限が1カ月。それで「えっ、1カ月以内に結婚しなきゃいけない。どうしよう。じゃあ、結婚しよう」となって、日本に行って役所に書類提出して結婚したのが2019年2月22日でした。だから、ぜんぜんドラマチックじゃない(笑)。

出典: FANY マガジン

——プロポーズといえば日本では指輪ですが、インドネシアではどうなんですか?

インドネシアは、さらにドラマチックです。貸し切りレストランで、運んできた料理のなかに指輪が入ってるだとか、ケーキに乗ってましたとか、そういうサプライズをやるんですよ。ただ僕の場合は、「書類作ろっか」になっちゃったので申し訳ないですよね……いまも隣から睨まれてますよ(笑)。でも、日本で役所に書類を提出した後にディズニーランドに行きまして。手続きもなにもかもすべて終わった後だったんですけど、「結婚していただけませんか?」と言わせていただきました。「完全に順番が違うだろ!」とマジでツッコまれましたけど(笑)。

——それは、そう言われるのもしょうがないですよね(笑)。そんな奥さんの好きなところはどこですか?

いちばん好きなところは、どんな瞬間、どんなシチェーションでも、幸せだって思わせてくれるところですね。本人が「幸せであれば、ほかのことは何もいらないよね」と、いつも言ってるんですよ。たとえば、初詣で絵馬に願い事を書いたりするときも、「世界でいちばん幸せな人になる」って書く。そのマインドが、すごくいいなって。僕はいつも、あくせくしちゃったり、バタバタしちゃったりするので、悠然と構えて「幸せにしていこうね」って言っていただけるのは、ありがたいなと思いますね。

出典: FANY マガジン

移住してなかったら何者でもなかった…

——30歳でインドネシアに移るのは大きな冒険だったと思うのですが、いま振り返ってみてどう感じますか?

日本にいた20代の10年間は、インドネシア語の非常勤講師の仕事などで金銭的には安定していたんで、それをぜんぶ捨てていくのは、確かに勇気のいることでした。ただ、自分がやりたい芸能や音楽の部分がぜんぜんうまくいかなくて。そこにギャップを感じていたんで、インドネシアに移ってからのほうが、自分がやりたいことに対してまっすぐにいけてるんで、よかったなと思っています。

それと、インドネシアでは僕はあくまで外国人なので、そこでもメリットはありますね。現地の芸能界にいる外国人は限られてますし、その意味で目立っているので、スタートラインからすでに違ったのはありがたかったです。いまもそれを生かして活動しているようなものですし、こっちに移ってきてよかったなと心から思います。日本にいたら、もうとっくにあきらめてるでしょうね。

出典: FANY マガジン

——インドネシアに移ったことで、自身の芸能生活が広がった、と。

日本にいた20代のころは、芸能生活なんて呼べるようなものはなかったですから。路上で歌って、ライブハウスでライブして、ノルマのチケット自分で売ってみたいな。テレビに取り上げられることもなかったですし、もちろんこうしてインタビューしてもらうことなんてなかったですし。そういう意味では、移って来なかったら何者にもなれてなかったと思います。本当に環境に感謝しています。

——となると、20代の自分に何か言うとしたら「早くインドネシア来いよ」ということですかね。

あ〜そうですね……まぁ、振り返ってみると20代の10年間、日本でいろいろ失敗したから学べたことっていっぱいあるんで。それを繰り返さないように、30代ですべてを賭けてインドネシアで勝負してみようと思えたので、無駄ではなかったとは思いますけど、早く来ることに越したことはないんじゃないかなと思いますね(笑)。

——今後は、どのような活動をしていきたいですか?

2021年はとくに音楽活動をしっかりやっていきたいと考えています。2017年にインドネシアでデビューアルバム『HIROAKI KATO』を出して、それを名刺代わりに売って歩いたから、いまがあります。それから4年ほど経ったので、今年こそは新作を出してミュージシャンとしての軸足をもっともっと太くしていきたいと思っています。

出典: FANY マガジン

【加藤ひろあき】
1983年生まれ、東京都出身。よしもとクレアティブインドネシア所属。ミュージシャン・タレント・俳優・MC・翻訳・通訳。2008年、東京外国語大学インドネシア語専攻卒、2010年に同大学院で修士号取得。2014年に活動の拠点をジャカルタに移し、幅広く活動している。2018年に国交樹立60周年を迎え、70周年へと向かう日本とインドネシアの架け橋として、今後もさらなる活躍が期待されている。