遂にサッカーW杯が開幕しました。根っからのミーハー人間ですので、普段からサッカーを見ているわけでもないのに、一丁前に盛り上がらせていただこうと思っております。
第一回大会が1930年で、今回が22回目の大会となります。これだけ歴史があれば、やはり数々のゴシップも生まれていますので、今回はW杯のゴシップをお届けします。
日本のW杯初出場、本当は1938年だった!?
日本のW杯初出場といえば、1998年のフランス大会ですよね。前年のアジア最終予選では、毎試合一喜一憂しましたし、のちに『ジョホールバルの歓喜』と呼ばれるプレーオフでの興奮は忘れられません。しかしそれ以前にも、日本がW杯に出場するチャンスがあったことをご存知ですか?
第2次世界大戦のため、4年に1度のW杯には1938年のフランスでの第3回大会以降、50年にブラジルで第4回大会が開かれるまで、12年の空白期間があります。その38年フランス大会で、日本はW杯初出場を予定していたのです。しかし、日中戦争の激化で参加を見合わせたというわけです。
それから60年後、同じフランス大会で初出場を決めたというところに、何か運命めいたものを感じますね。
試合結果から本当の戦争に突入!?
1969年7月、W杯出場権をかけた地区予選でエルサルバドルとホンジュラスが激突。互いに1勝1敗となり、プレーオフを争うことになります。最終戦は2対2のまま互いに譲らず、ついには延長戦へ。死闘の末、エルサルバドルが出場権を手にしました。
ところが、試合をテレビ観戦していたホンジュラスの大統領が、自国に不利な判定があったと激昂。即座に国家非常事態法を発令し、さらにエルサルバドルとの国交を断絶。遂にはエルサルバドルに対して宣戦布告をしてしまいます。
のちに『サッカー戦争』と呼ばれるこの戦いは、完全な終結までにおよそ1か月近くもかかり、この戦争における両国の犠牲者数は5000人以上と言われています。
ただし、国境を接する両国の間には、不法越境問題や、国境線をめぐる対立が伏線にあり、必ずしもサッカーだけが原因ではなかったようですが、サッカーが開戦の口実になったことがあるというのは驚きですよね。
サッカー王国ブラジルの事件簿①
1950年7月16日W杯決勝戦となったブラジル対ウルグアイの試合で、事件は起こりました。
世界最大の収容数を誇るマラカナン・スタジアムには、母国の優勝を願っているブラジルサポーター20万人が詰めかけていました。後半2分にブラジルが先制点をあげると、スタジアムは興奮のるつぼとなります。しかしその後、ウルグアイは立てつづけに2点を連取し、誰もが驚く大逆転劇を演じます。スタジアムは大混乱。あちらこちらで悲鳴と怒号が飛び交いました。
やがて20万のサポーターが、落ち込みながらスタジアムを立ち去っていったのですが、スタジアムには椅子に座ったまま、まったく微動だにしない観客が4名残っていました。なんとその方たちは、ブラジルのまさかの逆転負けに、その場でショック死していたのです。
後に『マラカナンの悲劇』と呼ばれるこの事件は、ブラジルのサッカー史に深く刻まれています。
サッカー王国ブラジルの事件簿②
1994年アメリカ大会は、ブラジル代表のエースだったロマーリオの大会でした。
ロマーリオは、ブラジル内外のチームを渡り歩き、スペインのFCバルセロナに所属していた1993−94シーズンでは出場33試合で30ゴールをあげる大活躍をした選手で、通算ゴール数1000ゴールも達成した偉大なストライカーです。
そんなロマーリオですが、大会前の5月に、実の父親が誘拐されるという事件に巻き込まれます。誘拐犯は身代金で700万ドル(当時のレートで約7億円)を要求してきました。警察の捜査もむなしく手がかかりは一切ない状態。しかし、おとなしく従うロマーリオではありませんでした。
『父親を返してくれなげればワールドカップには出場しない』
と、メディアを通じて犯人に逆要求をつきつけたのです。これが、サッカーに熱狂的なお国柄もあって功を奏し、報道後に父親は解放され、警察に無事保護されたのでした。この事件を乗り切って大会に臨んだロマーリオは、ブラジルを優勝へと導き、自身も大会MVPに輝きました。
ちなみに、解放後、犯人が要求した身代金の額を知った父親は
『自分に700万ドルの値段がつくとは思わなかったね。あのサッチャーさん(元英国首相)だって、そこまで高くはないだろうね。』
と、ブラジリアンジョークを言ったそうです。
ブラジルの治安の悪さと、サッカーへの情熱と、サンバの国の陽気さがギュッと詰まったエピソードですね。
世界的大イベントですから、とんでもない大事件もたくさん起こってきました。さあ、今大会はどんな大事件が起こるのでしょうか。願わくば、日本代表の大躍進という大事件が起こってほしいですね。