ライセンス藤原「初対面のカラテカ矢部が鬼の形相で回し蹴りを始めて…」 “巳年芸人”年男座談会【1977年生まれ編・東京所属】

ファニマガの新春恒例企画“年男座談会”。今回は、2025年で48歳を迎える“巳年芸人”(1977年生まれ)が集まりました。メンバーは、カラテカ矢部太郎、ライセンス・藤原一裕、佐久間一行、ガリットチュウ・福島善成の4人。佐久間と福島はNSC(吉本総合芸能学院)東京校2期生の同期で、矢部と藤原はオーディション組なので、数カ月の差はあれど、ほぼ同期という関係性です。ちょっと珍しい組み合わせの座談会は子どものころの思い出や若手時代の苦労話などが飛び出し、大盛り上がりでした!

出典: FANY マガジン
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「週刊少年ジャンプ」発売日にまさかのタイムラグ!?

──まずは、年男座談会で毎回盛り上がる、少年時代の話から始めたいのですが……。

福島 東京って「(週刊少年)ジャンプ」は何曜日発売だったっけ?

矢部 月曜日。で、ちょっと早いところは土曜日。

藤原 土曜日!? 日曜日を飛び越えて土曜日!?

矢部 土曜日の夜にその店に行くと売っているっていう……。

佐久間 それ、いいのかな(笑)。

福島 僕は熊本県の天草でめっちゃ遠くて、(ジャンプの発売は)木曜日でした。

矢部・藤原・佐久間 えーっ!?

福島 しばらくして、火曜日まで繰り上がったんですけど、最初は木曜日でした。

佐久間 それでも火曜日か……。

藤原 じゃぁ、熊本で木曜日に読んで、土曜日に東京に来たら、すぐに次が読めるな。

福島 だから、母ちゃんが慰安旅行か何かで東京に行ったときに、「ジャンプ」がお土産でした。

藤原 ジャンプなぁ。「聖闘士星矢」(1985年12月~連載開始)とかな。(自分たちの少年期は)黄金時代ちゃう?「魁!!男塾」(1985年5月~連載開始)とか。

出典: FANY マガジン
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福島 「ドラゴンボール」(1984年11月~連載開始)とか。

矢部 「ハイスクール!奇面組」(1982年4月~連載開始)とかね。

許せなかったビックリマンシールの箱買い

佐久間 キン消し(「キン肉マン」のキャラクターを模した消しゴム)とか集めてたしね。

矢部 デカいのがあったりね。

藤原 たまに色塗ってるヤツおったり。なんで色塗ってんねんって。

佐久間 自立しないのがあったりね。

矢部 ビックリマンシール(チョコレート菓子「ビックリマン」のおまけシール)とか、集めるものがいっぱいあったな。

藤原 金持ちが箱買いして。

福島 あの許せないヤツね、お菓子の部分だけ貧乏人にあげるっていう。

佐久間 懐かしいな。「ビックリマン」のアイスもあったしね。

福島 持った瞬間に感触でヘッド(ビックリマンのキャラクターの中でも価値が高いもの)ってわかるんだよ。

矢部 それ、都市伝説じゃないの?

福島 本当だよ。みんなやってたもん。麻雀の盲牌(モウパイ)みたいな感じで。

一同 (笑)

出典: FANY マガジン
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藤原 オレ、ミニ四駆やってたな。近所のプラモデル屋にコースが常設されていて。

佐久間 「アバンテJr.」が人気で、田舎だから、人気がない機種と抱き合わせで売られてた。

福島 自分たちで段ボールのコースを作ったりね。

佐久間 作った! 公式のコースにも憧れたんだけど。

矢部 うちの近くにはコースがなかったから、壁にぶつけるしかなくて、もう何が楽しいんだか……。

初CDは聴きたくなかった大江千里

──矢部さんは漫画を描きますが、どんな漫画が好きだったんですか?

矢部 やっぱり「ジャンプ」とか、お姉ちゃんが読んでいた少女漫画を読んだりもしてました。

藤原 何歳上?

矢部 6歳上です。

藤原・福島・佐久間 6歳!?

矢部 お姉ちゃんは大江千里さんが好きで。

佐久間 その時代だよね。

矢部 一緒に買い物に行くと、僕は僕でほしい物があるのに、「あんたも大江千里のもの買って!」って言われたりして……。初めて買ったCDも大江千里でした。

藤原 6歳下の弟に、なかなかパンチ効かせてくる姉ちゃんやな。

佐久間 いまなら、良さがすごくわかるんだけどね。

──せっかく音楽の話が出たので、ほかの皆さんが初めて買ったCDは?

藤原 オレ、光GENJIやったな。たしか、「剣の舞」(1988年10月発売)買ったんちゃうかな、8センチCDの。

佐久間 パキっと折る派と、折らない派がいるやつね。

藤原 何で折るんかわからんけど。小っちゃくしたいなら、はじめから小っちゃく売ってくれよっていう。

福島 オレ、爆風スランプの「リゾ・ラバ(-Resort Lovers-)」(1989年7月発売)です。ボリューム上げてると、歌い出しから「全部嘘さ!」って、ガンとくる。

藤原 けっこう大人な歌詞やねんな。一夜限りの男女の関係を歌ってんねんけど、親とかどう思ってたんやろ。

福島 当時、小6とかだったと思いますけど、歌詞の意味はわからず、ノリで歌ってましたね。

出典: FANY マガジン
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佐久間 オレは、吉田栄作の「V-ヴィクトリ─-」(1991年2月発売)です。

一同 (笑)

福島 “ぽい”な! なんかみんな“ぽい”ですね。矢部くんの、“お姉ちゃんに買わされた大江千里”含めて(笑)。(ダウンタウンの)浜田(雅功)さんが出ていたドラマ『ADブギ』(1991年10~12月放送)の主題歌「ほっとけないよ」(楠瀬誠志郎)もよかった。あのころのドラマはずっと見てたな。面白かったですよね。

藤原 テレビしかなかったもんな。

佐久間 全員が同じもの見てましたもんね。夕方のアニメの再放送とか。夏休みに『タッチ』を放送するんですけど、毎回、途中回で終わっちゃうんですよ。最終回まで流れない。

藤原 めちゃくちゃやな。いま考えたら。

ずっと関西にいたら芸人になっていなかった

──お笑い番組を見始めたのは、いつくらいからですか?

藤原 うちが転勤族なんですよ。小2から小5までは神奈川県の川崎市にいて、その後、中2までは新潟にいました。だから、完全に関西じゃないのよ、オレ。

矢部・福島・佐久間 えーっ!? 知らなかった……。

藤原 だから新潟にいるころは、ネットしている番組も限られていたから、ダウンタウンさん、とんねるずさん、ウッチャンナンチャンさんだけが若手芸人だと思っていたんですよ。

それで、中3で奈良に戻ると、そこで関西のお笑い文化が一気に入ってきた。そこで、「あの3組、めっちゃ売れてんねや。すごい人たちなんや」ってわかって、お笑い界の裾野の広さを知ることになるんです。それがすごく衝撃で、自分もやってみたいって思いました。だから、僕はカルチャーショックでお笑いの世界に入ってるんですよ。ずっと関西におったら、たぶん芸人にはなっていない。

出典: FANY マガジン
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矢部・福島・佐久間 へぇ~。

福島 九州もテレビ番組は関西寄りでしたけど、お笑い番組めっちゃ多かったですよね。『爆笑BOOING』(関西テレビの関西ローカルお笑い番組、1993年4月~1996年3月放送)も映ってましたよ。

佐久間 関東ではやっていなかったな。

藤原 おもろなかったら、お客さんがカードを上げんねん。そうしたら、そこでバーンって終わんねん。

佐久間 ひどい……。

芸人になったきっかけは地元の大スター

矢部 僕は東京の東村山市出身なんですけど、子どものころから志村(けん)さんが地元の大スターだったから、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(1986年1月~1992年3月放送)はよく見てたな。ネプチューンの(原田)泰造さんも東村山出身なんですけど、地元からお笑いの道に進んだ人がいるっていうのは僕にとって大きくて。

佐久間 僕はダウンタウンさんとドリフターズを見ていて、もうこの2組が2強でした。『ダウンタウンのごっつええ感じ』(1991年12月~1997年11月放送)を見て、お笑いを始めたいと思ったんですよね。あんなふうにみんなでコントをやりたいって思った。漫才っていうものがあることは、NSCに入ってから知った感じです。

矢部・藤原・福島 えーっ!?

佐久間 田舎だから夜は早く寝ちゃって、深夜番組とかもあまり見なかったし、お笑いを始めてから、ダウンタウンさんにもコンビの漫才ネタがあるっていうことを知ったんです。だから授業で漫才をやっているのを見て、何だこれ? これやんなきゃいけないの? って。

藤原 2人でしゃべるだけって何だ? って(笑)。

佐久間 そこからいろいろ学んでいった感じでした。

福島 さっくん(佐久間)とはNSC東京校で同期でしたけど、やっぱり不思議な存在でしたよ。“一旗揚げてやろう感”は、僕と同じくらいありました(笑)。

藤原 さっくんは、誰かと組んで入ってきたの?

佐久間 僕は高校の同級生に誘われてNSCの面接に行ったんですけど、面接官に恐い人がいたから、その同級生はやめちゃって……。何人かいた面接官の中で、その人だけ革パン、革靴で机に足を乗せて、「はい、次!」って、めちゃめちゃ怖かった。

福島 テレビ番組のディレクターとかも怖かったんですよ。

出典: FANY マガジン
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──福島さんは、地元の熊本から出て東京のNSCに入ったんですよね。大阪ではなく。

福島 当時は、大阪に行ったら関西弁に染まっちゃうと思ったんですよね。染まる自信もありました(笑)。でも、九州出身のヤツが関西弁使うのもヘンだなと思って、東京へ行ったんです。

藤原 当時の関西人は、関西弁至上主義みたいなものがあったしな。東京から来たヤツでは笑わなかったり。

佐久間 僕も関西弁の練習してました。何も知識がないから、吉本に行くならダウンタウンさんみたいに関西弁をしゃべらなきゃいけないんだと思って……。

藤原 かわいい(笑)。

佐久間 実家でも自然に関西弁が出るようにして、「~やんけ」とか上手に言えると、親に「一行! いまの関西弁自然だったじゃん!」とか言われて(笑)。でも、NSCに入ると、実は個性がめちゃくちゃ大事だっていうことを知るんですよね。

同期の出世頭だったカラテカ矢部とライセンス藤原

福島 オレ、藤原さんは売れるのがめっちゃ早かったイメージがあるんですよね。

佐久間 オレも! 深夜番組やってましたよね。

藤原 20歳のときに「news」(アップダウン、ライセンス、シャンプーハット、ガレッジセールからなるユニット)でやってた。

福島 あのころは、深夜番組のレギュラーを持てたら売れる説があったんですよ。

矢部 当時、日比谷野音でやったnewsのライブの前説をやらせてもらって、それだけですごく嬉しかったな。

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藤原 カラテカは、newsの稽古場で会ったのを覚えてんねん。「ライセンスと芸歴はほぼ変わらないカラテカって言うコンビなんだけど、矢部くんは極真(空手)やってるからね」って紹介されて。その場で急に鬼の形相で回し蹴りとか始めたんよ、小っちゃい子が(笑)。クレイジーなヤツやなって第一印象だった。

福島 ライセンスさんと矢部くんはめちゃくちゃテレビに出るのが早かったんですよ。矢部くんも『(進ぬ!)電波少年』(1998年1月~2002年9月放送)に出てたし。

藤原 僕らは、なかよし(いまは解散)さんっていうコンビがnewsを抜けることになったから、入れ代わりで加入したんですけど、最終オーディションに残ったのがライセンスとカラテカだったって聞きました。

矢部 あの並びに僕らは絶対におかしかったですよ! 当時は可能性あるんじゃないかって頑張ってましたけど。

福島 もし入ってたとしても、抜群に人気なかったよね(笑)。

矢部 なかよしさんがすごく人気あったから……。

藤原 最初のころは、アンケートに「なかよし返せ」って書かれたよ。返せっていわれてもなぁって。

福島 当時はファンの方たちも熱かったですよね、“推し”じゃなくて“命”って感じだった。

待望のレギュラー番組を1回で降ろされた福島

──芸人さん同士の雰囲気はどうでしたか? いまの若手の皆さんは、すごく和気あいあいとした感じですが、皆さんのころはそうではなかったという話も聞きます。

藤原 大阪もいろいろありましたけど、オレらよりちょっと上の世代までかな。

矢部 東京は渋谷(公演通り劇場)と銀座(7丁目劇場)がね。

佐久間 ちょっと対抗心というかね。

矢部 さっくんとは、ユニットライブとかもやっていたよね。

佐久間 カラテカのほか、Bコース、ノンスモーキン(いずれも解散)と僕とで、「セカイババイロ ココロミズイロ」ね。

藤原 あった! タイトルが全部カタカナのね。東京の人は、銀座か渋谷か選べたの?

佐久間 いや、NSCを卒業したら全員銀座で、渋谷はオーディション組っていう感じですね。

出典: FANY マガジン
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矢部 渋谷はガレッジ(セール)さんだけちょっと先輩だけど、ほかはほぼ同期みたいな感じで仲がよかった。

福島 銀座は、品庄(品川庄司)さんとか怖かったな。

佐久間 オレもいまだに(会うと)ビシッてなるなぁ。でも、そういう感じじゃないと、自分を保てなかったのかもしれないですね。みんなが上に上がっていこうと必死だったから。

藤原 結局、席が少なかったから。いまみたいにSNSなんてなかったし、個人で何かを発信することもできなかった。新しく始まる番組のわずかな若手枠を競い合っていた感じ。

福島 深夜番組で1分ネタがちょろっとできる枠が5組分くらいあると、そこに何百組っていう若手が殺到する。それでやっと勝ち抜いてネタをやっても「おもしろくない」って言われてさ。地獄のループみたいだった。

藤原 「あいつが、あれ出るらしい」っていうウワサが一斉に回ったりしてね。

佐久間 いまみたいにSNSもないのにね。

藤原 『M-1』『キングオブコント』『R-1』 みたいなコンテストもないんですから。

福島 僕らも深夜番組のレギュラーが決まったことがあるんですけど、あまりにつまらなくて1回で降ろされたんですよ。

佐久間 レギュラーなのに!?

福島 (相方の)熊谷(茶)がそのギャラを見込んで友だちにカネを借りまくってたのに、1回で終わったっていう。

藤原 レギュラー番組を担保にカネを借りてる奴がいた(笑)。めちゃくちゃ芸人やな。

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藤原が一度だけ芸人を辞めようと思った日

──皆さんの大きなターニングポイントはどこにありましたか?

矢部 僕はやっぱり『電波少年』ですかね。24歳くらいのときで、それでバイトを辞められました。

佐久間 バイトをしなくなったっていう意味では、『メンB』っていうコント番組のレギュラーになったころですね。陣内(智則)さんとか、アンジャッシュさんとかと一緒にやっていたんですよ。26歳くらいでしたかね。

藤原 僕はnewsに入って、20歳でバイトしなくなりましたね。

福島 僕はだいぶ遅くて、40歳になってからくらいです。船越英一郎さんのモノマネでCMの仕事が入ったりもしたんですけど、闇営業問題でドンと下がりました。

藤原 まさかの落とし穴(笑)。でも、そこから柔術世界一になるんやから、頭おかしいな。

福島 矢部くんは配信で試合を見てくれて、スポンサーにもなってくれたので、道着に似顔絵が入っているんです。

矢部 本人から電話がかかってきて、ほぼカツアゲみたいな……。

一同 (笑)

佐久間 僕らが若いときは、月給が初めて10万を超えたとかで大喜びしていましたけど、いまの若い子たちは配信で何百万と稼いだりしているって聞くよね。

福島 信じられない。

藤原 おかしくなっちゃうよね。

福島 でも、そういう時代があったから、熊谷は社長のカラオケの合いの手が死ぬほどうまくなった。天才的ですからね。何百万ももらっていたら、そんな経験しなくていいもんね。

佐久間 でも、そういう経験を経て、たくましくはなってるかもね。

福島 だから、僕ら30分の営業とかでも、何も怖くないですもんね。

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藤原 いまの子らは、レギュラー入れんといてって言うねんて。ほかができないから、単発での出演がいいって。

矢部 レギュラーって心の安定でしたけどね。

藤原 配信のほうが効率いいから、営業もあまりいかないって。

矢部 地方でおいしいものを食べられたり、新幹線に乗れたり、営業って楽しみだったよね。

藤原 若い子に気持ち悪がられるで、そんな考え方。

矢部・福島・佐久間 (笑)

──ちなみに、ツラい若手時代を経験して、芸人を辞めたいと思ったことはなかったですか?

矢部 僕はそんなにないかな。

福島 多少はあったかな……。

佐久間 僕は『R-1グランプリ』を獲る少し前くらいは仕事が減っていて、少しよぎりましたね。

藤原 僕はラストイヤーで臨んだ『M-1』 の準決勝で落とされたときに、「これ、もう売れへんわ」って思いましたね。そのときは、マネージャーが後ろから追いかけてきて、酒を飲みに連れていかれて、ベロベロに潰されたんです。そのまま1人で返したら、僕が死ぬと思ったんですって。めちゃくちゃ飲まされながら「敗者復活頑張りましょうね」って何回も言われて。結局、その後の敗者復活で決勝に上がることになるんですけど、僕が辞めようと思ったのは、その1日だけですね。

福島 いいマネージャーっすね。

出典: FANY マガジン
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2025年は時代の変化に柔軟でいたい

──最後に年男の皆さんに、2025年の抱負をお願いします。

藤原 年々抱負が難しくなってるよね。

佐久間 いまを頑張ってという感じになっちゃってますもん。何がどうなるかわからないし。自分が頑張っていても、コロナ禍で急にいろいろなことができなくなったりもするし。時代に沿って、流れに身を任せるという感じですよね。

藤原 若いころだと“これを獲りたい”とか、“これに出たい”とかあるけど、もうこの年齢になるとその位置にはいないもんね。だから、さっくんが言ったように、この先も何があるかわからないから、“いつも柔軟でいたい”とかそんな感じ。

佐久間 “自分のメンタルが落ち着く方法でやる”とか、“楽しくやる”とかね。

藤原 世の中に、それを受け入れる幅もできたしね。

福島 あとは、とりあえず健康です。

矢部 あとは老眼鏡を買いたいなって。

福島 やめようぜ、2025年の年始の抱負が老眼鏡を買うって(笑)。

──たとえば、佐久間さんや矢部さんは独身ですが、今年こそ結婚という抱負なんかは……?

矢部 結婚ですか……。

佐久間 うーん……。

福島 すみません、まだこの2人には女性関係の質問はNGでお願いします。そこはファンタジーなので。

佐久間 今年で48歳になるのに!(笑)

出典: FANY マガジン
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