この日の楽屋は騒がしかった。
芸人の楽屋なんてそんなものだろう。
そういう印象もあるかもしれない。
しかしながら、物静かなメンバーだけがたまたま集まった楽屋も存在するし、芸人の皆が皆、普段からお喋りというわけでもない。
だが、この日は特に騒がしかった。
気心の知れた、大阪出身芸人が一堂に会していたせいか。
あるいは、梅雨のジメジメとした空気を皆が無意識に吹き飛ばしたかったのか。
「ん?待って、なんかおかしくない!?」
「服どうなってんのそれ!?」
「てか犬!!!」
「てかペンダントしてるやん!」
「短パンであってんのかそれ!」
「ほんで、でかすぎるやろ!」
これは全て、ある一人の男に“ほぼ一斉”に向けられた言葉達である。
バイク少年は今回の事件について、後にこう語っている。
「事件が起こったからといって、必ずしも被害者がいるわけではない───」
*
太陽が照りつけるアスファルトから、夏の匂いが漂いだした6月の某日。
バイク少年(以下BKB)は、ルミネtheよしもとでの本公演ネタ出番を3ステージ終え、4ステージ目の「大阪芸人会」の開演時間まで、しばし休息をとっていた。
「大阪芸人会」というのは、ルミネで不定期に行われている、大阪よしもとから上京してきた芸人が10組ほど集まり、なにわ仕込みのネタやコーナーを届けるライブだ。
この日のBKBのように、本公演からそのまま大阪芸人会ライブに出演する芸人もいれば、別の仕事を終えルミネに到着し、大阪芸人会にだけ出演する芸人もいる。
今年上京してきたばかりのコンビ『からし蓮根』も夜に楽屋入りをして、長身のボケ担当の伊織が、挨拶をしてきたそのときだった。
「おはようございます〜」

一瞬の沈黙のあと、周りにいた芸人が口々に、伊織の個性的な服装に対してコメントをする。
それに対して、伊織もまったく動じることなく応えていく。
「ん?待って、なんかおかしくない!?」
「え?なにがですか?」
「いや、全部全部!」
「服どうなってんのそれ!?」
「ああ、いいでしょこれ。裏地がオシャレでしょ。こないだ中華街で買ったばかりです 」
「気になるのは裏地じゃなくて!」

「てか犬!!!」
「かわいいでしょこれ」
「かわいいけど!」
「てかペンダントしてるやん!」
「中にペットの写真いれてます」
「アメリカ人かい!」
「短パンであってんのかそれ!」
「暑いですからね」
「短すぎん!?」
「ほんで、でかすぎるやろ!」
「まあ、はい」
「まあ、うん!」

伊織は、体躯こそ人一倍大きいが、イジられ愛され後輩気質でもあるため、淡々と一つ一つ返事をしていく。
芸人の私服イジり、なんてものは、ひとしきりイジり終われば次の話題にいくもの。
だが、そこに『ニッポンの社長』の辻が通りかかった刹那、誰とはなく放たれた言葉。
「……その上着、なんかファッション的に辻さんぽくない?辻さんのほうが似合うかも?」
言われた伊織は、そこでもまったく動じず「そうすかね?え、じゃあ辻さん羽織ってみてくださいよ」と、状況を自ら推進させる。
辻も「……じゃあ、一応着てみよか。てか犬すご」と、伊織が着てたばかりの上着を受け取り羽織って見せた。
「え?めっちゃよくない……?」
「いい!!!」
「辻がもともと着てた服みたい!」
BKBも、確かに辻のほうが似合うな、と思うと同時に、後輩の服が先輩のほうが似合うという流れ───これは痛ましい事件だな、と俯瞰で状況を見ていた。
そのときだった───。
「じゃ、この上着、辻さんに譲りますよ」
伊織の野太く冷静な、とんでもない一言。
「買ったばかり」と言っていたはずなのに、なぜそんな提案ができるのか。
その黒目がちなピュアな瞳からは、先輩が言うから仕方なく、といったような負の感情は全く感じられない。
辻もまんざらではない様子で「いや?ほんまに?めっちゃ渋い服やけど確かに。マジでいいの?」と、後輩にあたる伊織の意思を再度確認する。
「全然いいすよ。辻さん似合ってますし、服は似合う人のとこにいったほうがいいんで。あげますよ」
「いや、伊織、さすがに悪いから買い取るわ」
「いや、ほんといいすよ」
「いや、それはさすがにマジで。うん」
「じゃお言葉に甘えて、ええと買った値段が確か……あ……!でもどうしよう」
上着の譲渡が今にも終わろうとしたその時。
「譲るのは全然いいんすけど、この格好で帰りの電車乗るのイヤかもす!」

確かに、上着ありきのコーディネートで、インナーの顔面デカ犬タンクトップを合わせていた伊織。
そこから上着がなくなるということは、自ずと剥き出しの顔面デカ犬タンクトップのみで帰ることとなる。
伊織のその言葉を聞いたBKBは、こう思った。
「顔面デカ犬タンクトップだけで帰るのは恥ずかしい」って感覚はあるんや、と。
恥ずかしい服ではあるけど上着で隠してたんや、と。
これまでずっと冷静だった伊織が、初めて動揺を見せている。
すると、辻がしばし悩んだ後「あ!」となにか閃いたような声をあげ、更に「ちょっと待ってて!」とスタッフのデスクのほうへと消えていった。
なにか上着の変わりになるものがあるのか?
幸い、劇場というのは小道具や衣装で溢れている。
きっとなにか折衷案を思いついたに違いない。
皆がそんな思いで辻を待ちわびていると、なにかを抱えて帰ってきた。
「これ持ってたら、その格好でも違和感ないんちゃうか?!」

確かにこれなら「普段から主に路上でバスケをしていそうな長身の好青年」に見えなくもない。
「嘘でしょ!僕これで帰ったほうがいいの!?」
「「「あははははは!!やばいやばい!!似合いすぎ!!あははははは!!!」」」
楽屋が、この日一番の賑わいを見せた。
「気持ちは嬉しいすけど、大丈夫です!」と伊織はボールを辻に返した。
そうこうしていると、大阪芸人会ライブは始まり、ジャケットを着て漫才を披露した伊織は、その後のトークコーナーで顔面デカ犬タンクトップで出演し、笑いをとっていた。
数百人の客前に顔面デカ犬タンクトップのみ、の服装をさらした伊織。
謎の免疫ができたようで「これで帰りますわ!」と元気に帰っていった。
これを読んだ皆さんも、インナーのチョイスにはくれぐれも気をつけてほしい。
なにか事件に巻き込まれないためにも───。
【完】