毎年恒例となったファニマガ“年男座談会”。今年も“辰年芸人”を集めて座談会を行いました!
今回の参加者は、1952年生まれの笑福亭仁智、ザ・ぼんち(ぼんちおさむ、里見まさと)、上方よしお——そう、上方落語界や1980年代の漫才ブームを牽引した大師匠ばかり! 同い年で、芸歴もほとんど変わらない4人が、若かりしころのレアな思い出話に花を咲かせ、さらには2024年の抱負まで語りつくします。インタビューを担当したのは、1976年生まれの年男、ザ・プラン9のヤナギブソン。令和の時代まで脈々と続くお笑いの礎を築いた重鎮たちによる、ファニマガでしか読めない超貴重な座談会をとくとご堪能あれ!
白黒テレビで見た「月光仮面」
ヤナギブソン 2024年に年男を迎える大師匠に集まってもらいました。皆さん、よろしくお願いします! 私、2回り下の年男を迎えるヤナギブソンでございます。
一同 よろしくお願いしま~す!
ヤナギブソン まずお伺いしたいのが……(上方よしおの相方の西川)のりお師匠は違うんですか?
よしお 相方とか(桂)南光さんは、年も芸歴も1年先輩。
ヤナギブソン なるほど! じゃあこの4人は、芸歴はどうなるんですか?
仁智・ザ・ぼんち 一緒やな。
よしお 俺は3~4カ月ほどずれると思うわ。大学行こうとしてスベったから、予備校へ行っとったんや。そこで、(予備校の)みんなの顔が、冗談を言えるような雰囲気とちごたんや。そんなん、ついていかれへんがな~。ほんで俺が思たんは、4年間大学へ行くか、自分の好きな芸の世界へ行くか……。
ヤナギブソン 芸の世界へ行くことを考えるということは、お笑いは子どものころから好きやったってことですか?
よしお テレビでヒーローもんとか、あるやんか。そういうのはいっさい見んと、落語聞いて笑ってたよ。
まさと 僕らが子どものころはラジオから白黒テレビができた時代で、ちょうどそういうのが入ってきたんよ。
よしお ヒーローって言うたら『月光仮面』(1958年~)か。
おさむ ああ~! 「月光仮面は誰でしょう~♪」や。たしか、ホンダのバイクに乗ってたんや。
仁智 (役者は)大瀬康一や。
ヤナギブソン 時代的に、途中からテレビが入ってきたんですか?
よしお そうやな。隣近所のテレビのある家に見に行ってたわなぁ。
まさと (1964年の)東京オリンピックでみんなの家に行きわたったんや。
仁智 (画面の前に)ビロードの幕つけて、見るときだけ開けてなぁ。正座して見てたわ。
よしお (ダイヤル式の)チャンネル変えるのんに、いちいち(テレビの前に)行ってな。
おさむ コロムビアのテレビや。これ(チャンネル)が、スポンと抜けるんや。
仁智 コロムビア! ええなぁ~!
ヤナギブソン 僕、おばあちゃん子やったんで、家にコロムビアのテレビ、ありました!
おさむ 真空管やから、テレビのスイッチ入れた瞬間は映らへんねん。ほで、何分かのあとにボワ~……。
一同 (声をそろえて)ボワ~……。わははは!(笑)。
まさと よそさんの家にテレビを見に行くときは、足をキレイに洗ろて、精いっぱいの服を着て、「テレビ、見せてください」って言うて。
おさむ 俺とこは、テレビが家についたのは早いほうやった。16インチで。プロレスの時間になったら近所の子らが「テレビ見せて~!」って来よるねん。ほんで、どんどん家に上がってくるねんけど、靴をそろえてないんや。「何してんねや~!!」。でも、プロレス観終わったら「ありがとうございました!」って。礼儀正しいで。
よしお 礼を言わな、見せてもらわれへんかったからね。
ヤナギブソン テレビが家にあったら、その地区では立場が上になるんですか。
よしお 絶対にそう。
仁智 なんというのか、大人の番組をよう見てたなあ。相撲とか。
初めて見たスターは三橋美智也
ヤナギブソン 子どものころのテレビのスターって、どなたですか?
よしお プロレスで言うたら、力道山やねぇ。
まさと 野球やったら長嶋(茂雄)さんやん。相撲やったら栃・若(栃錦と初代若乃花)か。
ヤナギブソン いわゆるお笑いにつながるようなスターはいたんですか?
まさと あのころはなんやろ? 『番頭はんと丁稚どん』(1959年~)か?
仁智 大村崑さんなあ!
おさむ 茶川一郎さん!「ミゼット、ミゼット!」(※ダイハツミゼットのCM)。
ヤナギブソン 好きな歌手とかアイドルもいたんですか?
おさむ 僕が最初に歌手を見たんは、三橋美智也さんやな。
仁智 シブいとこ、行くねぇ!
おさむ 子どものとき、舞台に連れてってもうて、ほんで僕まだちっこかったから(舞台の)前まで連れてってもうて、握手してもうてん。「わ~らに~まみれてヨ~♪」(立ち上がって熱唱)。
仁智 おまえ、ネタすな(笑)。
おさむ (三橋美智也が歌った)『怪傑ハリマオ』(1960年~)や。「ハリマオー♪ ハリマオー♪ まっかな~太陽~♪」(立ち上がって熱唱)。
ヤナギブソン 三橋美智也さんは大スターでしたか?
おさむ そうや、大スターや。
よしお 僕はだいたい、当時は落語家さんやなあ。(林家)三平師匠とか。みんな、小学校のとき、卒業前に予餞会(よせんかい)ってあったやろ? クラスでパーティーみたいなんするやつ。そこで私ね、落語やったもん。
仁智 小学生のとき! すごいな、やるなぁ~。
おさむ そんなん、俺かて小学生で「カッカッ」(舌を鳴らす)できてたよ。
一同 わははは!(笑)
まさと 僕はやっぱり吉本新喜劇やね。平参平さん、ルーキー新一さん、いまの礎を作った方々やね。そら、すごかった。
おさむ (ルーキー新一のギャグ)「イヤーン、イヤーン」を見て笑っとった。『道頓堀アワー』(1958年~)っていう角座の寄席中継もあったなあ。ほんでその間に『大正テレビ寄席』(1963年~)があるねん。牧伸二さんもよう見てた。
ヤナギブソン 仁智さんも、お笑いは子どものころから好きやったんですか?
仁智 お笑いは、大村崑さんの『番頭はんと丁稚どん』とかやな。僕らはまだ子どもやったけど、落語は(テレビでは)ほぼ東京の落語しかやってなかったからなあ。たしか、土曜日に東京の寄席の1時間番組をやっとったわ。それで落語3本。
よしお おもしろい人は飛び抜けておもしろかった。三平師匠とかね。
おさむ 俺は(柳家)小せん師匠が好きやったなぁ~。
ジャイアント馬場に肩を持たれたときの感覚
ヤナギブソン 当時、関西ローカルで漫才はやってたんですか?
まさと 松竹新喜劇のあとに漫才やってたかな。
よしお 『道頓堀アワー』は角座から中継をするから、松竹の漫才さんがどーんと出てきはるねん。伸・ハワイ(暁伸・ミスハワイ)師匠とかな。
仁智 「ア~イ~ヤ~」やな。
よしお 当時は、伸・ハワイ師匠が舞台に出てきて「ア~イ~ヤ~」ってお尻を振りはるだけで会場がどおーんと揺れたんや。
まさと 『道頓堀アワー』は、よそ様(松竹)がやってはったとはいえ、格式があって、(桂)米朝師匠であったり、(笑福亭)松鶴師匠が出てはって、トリは必ず音楽の師匠! かしまし娘さんであったり、楽器使ってね。
ヤナギブソン 僕が知っているむかしの師匠といえば、(中田)ダイマル・ラケットさんとかエンタツ・アチャコ(横山エンタツ・花菱アチャコ)師匠とか。
よしお アチャコ先生は実際に会うたけども、大きい人やねん。俺、案内係をやったとき、アチャコ先生が俺の肩を持ちはってんけど、そのときの感覚が、むかしジャイアント馬場さんに肩を持たれたときと同じような感覚やった。
おさむ おまえ、なんでジャイアント馬場に肩持たれてんねん(笑)。
よしお 『花王名人劇場』(1979年~)に出たときに、相方の顔が大きいから、ジャイアント馬場の十六文キックの足と、どっちが大きいかっていうネタがあったんや。そのときに。
おさむ そのときに(よしおの肩を)「ポゥ」?
仁智 「車の前にあるのはなんですか?」
おさむ (「ポゥ」の口調で)「バンパー」。
一同 ははは!(笑)
まさと これなぁ、45年前のザ・ぼんちのネタやねん!
仁智 だから知ってるねん、俺。
おさむ 3人でやっとったからな。
まさと 「花の27年トリオ」でやっとったんや。
仁智 Wヤングさんの番組やったかな?
まさと そうそう!
仁智 やりましたなぁ。
笑福亭仁智と里見まさとが野球を観に行ったら…
よしお 仁智くんは超売れっ子で、レギュラー7本くらいあったん違うかな? すごいキャーキャーで。ほんでそのとき、「衣装がない」っていうから、俺、藤井大丸に一緒に行ったってん。
仁智 そやったか!?
よしお さみしいやんか。
まさと 僕が仁智で覚えてるのがね、お互い近鉄(バッファローズ)ファンやっていうので、「日生球場(日本生命球場、現・もりのみやキューズモールBASE)へ野球観に行こう」って言うてな。俺が「毎日放送でラジオの生放送が終わったら、(梅田の)阪急ファイヴ(現在のHEP FIVE)まで迎えに行くわ」って言うて待ち合わせして。ほんでそこ行ったら、「ぎゃー!」って、中学生とか高校生の女の子らにぐわ~って囲まれてて。その間から(仁智が)「お~い」って。
ヤナギブソン へぇ~!!!
仁智 (ヤナギブソンに)話半分で聞いてや(笑)。
まさと ほんで、車で日生球場まで行くんやけど、俺、そのときに「今度から、野球観に行くにしても、球場で会おう。迎えに行くの、イヤやわ。会われへんから」って言うてん。
ヤナギブソン そのすぐあとにザ・ぼんち師匠がぼーんと売れるんですよね。そのときは仁智さんはどんな感じやったんですか?
仁智 「行ったな~!」って。びっくりしたな。ほんでザ・ぼんちが『ザ・ベストテン』に出てなあ。中継やって言うて、嫁はんと「まさとくん出るわ!」ってテレビで見てた。黒柳徹子さんが「2人は、いま道頓堀を走ってます~!」って2人をヘリコプターがパタパタパタ~って追いかけてるんよ。
ヤナギブソン はぁ~、すごいな……!
仁智 「こいつらと俺、野球観に行ったんやなぁ」とか言うて。ほんますごかった。
おさむ 今日はこんなメンバーで集まれてうれしいなぁ。
ヤナギブソン 最近の4人のお付き合いはどうなんですか?
よしお みんなそれぞれ、歳をいくでしょう。そうなると、やっぱりそれぞれの人生が後ろについてくるからね。それぞれの人生があるから、そない若いときみたいに集まったりはせんよ。
おさむ (仁智は)上方落語協会の会長やから、言いにくいねん~。
仁智 なんでやねん! そんなことないわ。
笑福亭仁鶴に「認められた」瞬間
ヤナギブソン 仁智師匠はなんで落語家の世界に入ったんですか?
仁智 まず、サラリーマンは合わん。あと、自己責任の仕事がしたい。漫才やったら、人のせいにしてしまうような気がしてな。だから団体競技はあかんし、芝居とかもダメですわ。人がしゃべってるのん待つんイヤやもん。
一同 ははは(笑)。なるほど。
仁智 ほんで、高校時代に(70年安保の)学生運動があったりして、デモに行ったりとか流行りに乗ってしまって、(学生運動が沈静化して)「無気力主義」とか言うて、「なんやねん」ってあんまり学校も行かんようになって。
よしお 時代やなあ。
仁智 そやけど時間が経って卒業が近づいてきて、どうするねんっていう話になるから、友だちに誘われて初めて生の落語を観に行って、(笑福亭)鶴光さんとかがやってて、それから毎月観に行くようになって。で、(笑福亭仁鶴)師匠の独演会を観て。それこそ「ドーン!」「ドーン!」やった。
まさと (笑福亭仁鶴は)すごかったもんな~。
よしお 仁鶴師匠がなんもしゃべらんでも、幕がパーンと開いただけで場内が「ドォー!!」って言うたもんね。会場が揺れるねん。
まさと あの時代の仁鶴師匠、当時の(桂)三枝さん、いまの文枝さん、やすしきよし(横山やすし・西川きよし)さんは、ハンパやなかったね。仁智なんか、楽屋におらんかったもん。(仁鶴)師匠について次の現場へ行かなあかんから、舞台の出番が終わったらダーッてどっか行ってた。
当時、10日間出番で、お互い弟子についてたけど、弟子同士はペラペラとしゃべられへんから、「いついつの2回目が終わったら、俺なんもないから、その日にな」って誘い合わせて、その日が来たら師匠らの出番が終わったあとに「喫茶ロマンス」でな。
仁智 「ロマンス」か!
まさと (夜の)11時30分すぎの地下鉄の最終まで、お互い夢を語ってなぁ。
仁智 ようボヤいてたな~(笑)。
ヤナギブソン 仁鶴師匠って、ふだんはどんな方やったんですか?
仁智 しゃべれへん。寡黙な人やった。
ヤナギブソン 稽古はどんなんやったんですか?
仁智 (忙しかったから)師匠が運転してる車の中で(稽古を)やった。俺がついたときから師匠が豊中に引っ越して、豊中から梅田花月やなんば花月へ行くときに、新御堂を走るわけや。それが、新大阪から梅新(梅田新道)までがめちゃくちゃ混むねん。そのときに「聞いてください」って言うて聞いてもらってたなあ。
ヤナギブソン 仁鶴師匠に「認められた」と感じたタイミングはあったんですか?
仁智 新作をやったとき、師匠がぼそっと言うたことはあったね。「お前のあの噺。俺、あんなん、やりたかったんや」って。
よしお それは、認めてはると言うことやな。
漫才ブームの3年強で「燃え尽きた」
ヤナギブソン ぼんち師匠とのりよし師匠は、長いことやってきても、ずっとコンビ仲がいいですよね。
よしお 1回、離れてる(解散してる)からね。(※西川のりお・上方よしおは1975年結成、1990年解散、1994年再結成)
おさむ そうそう、うちとこも離れてる。(※ザ・ぼんちは1972年結成、1986年解散、2002年再結成)
ヤナギブソン それはどんな理由やったんですか?
よしお それは、お互い若かったからね。血の気も多いし、漫才って2人でやるもんやから、いろいろ思うことあるわな。ぶつかるやん。でもまあ、いったん休憩したらええんちゃう?
ヤナギブソン 再結成したあとは、以前と関係性が変わってたり?
よしお 変わってる。もうええ歳やったし。
まさと 僕らはまだ33歳で、大きな漫才ブームのあの3年強の間で、ほんっとに燃え尽きた。われわれも燃え尽きたけど、お客さんも、世間も燃え尽きた。「ご苦労さま」という空気のなかで、梅田、なんば、京都の劇場に戻って劇場中心になったけど、もとの寄席芸人にはなかなか戻られへんかったね。だから、燃え尽き症候群やね。
ヤナギブソン それで、いったん別れて。
よしお 僕ら、(ザ・ぼんちの)最後の舞台のとき、花束持っていったもんね。
おさむ だから、のりよしが(再結成して)復活したときは、僕がナレーションをやりましてん。
ヤナギブソン お返しに! 皆さん、芸歴は今年でどれくらいになるんですか?
まさと 僕らは53年やな。
よしお 僕は今年で52年と7カ月やね。予備校行ってたから。
仁智 予備校、行ってたん?
まさと また始めに戻ってまうやろ(笑)。
「2024年は漫才師として覚悟をもってやりたい」
ヤナギブソン (笑)。では、そろそろ皆さんの今後のお話も……。
よしお ぶっちゃけた話ね、俺らの年代の方々、70代の方も亡くなったりしてますやん。だから、1日でも長く健康でおって、現役を続けられたらええな~っていうのが、みんなの気持ちやねん。
おさむ 漫才できることが、どんだけうれしいか。
よしお 現役で舞台に立てて幸せやろ? もう、それくらいの年齢になってるっていうことや。「現役で舞台に上がれるというだけで幸せ」というのは、この歳になったらわかる。
ヤナギブソン 皆さん50周年の大きなイベントとかは終わったんですか?
よしお うちはやってないねん。そんなんするコンビとちゃうから。
おさむ うちは50周年のツアーもしたし、古希のイベントもやったんや。
まさと またうちのマネージャーさんが動いてくれててな。またなんか、『バック・トゥ・ザ・ネーター』って言うて。
おさむ こうやって、話があるうちが華やぞぉ~。
よしお 元気でおってや!!
おさむ おおきに~!!
ヤナギブソン まだまだお元気ですやん。
まさと でも、吉本・松竹問わず、東京だって、先輩や仲間、後輩がそろそろみんなちょっとずつお先に逝ったりしはる。これから、増えることはない。やっぱり漫才師は漫才師で、相方を見送った側は「もう1回、漫才しときたかった」って言うてはる。やっぱり、舞台に上がってたい、寄席小屋へ出てたい。仁智さんも落語やってたいやろ?
仁智 やってたいなあ。
ヤナギブソン 最後に、2024年の抱負も教えていただけたらと思います。
よしお だからもう、健康第一やね。現役という名のもとでがんばっていきたいなと思います。新たになにかしよう、というよりは、持続できることの大切さ。これを考えてます。
まさと よしおさんのところと、ほぼ考えは同じですね。私ね、この72歳、この1年は本当にちょっと大事に過ごしたい。なぜならば、明くる年、73歳のときに漫才やれているかなって、これ、わからん年齢になってくる。だから、この1年は漫才師として覚悟を持ってやりたいなと思ってるねん。
仁智 あんたは大丈夫やで!
おさむ 僕は毎日、手を合わせて家内安全、無病息災、世界平和。それと、「80歳、90歳になっても現役でおられますように。がんばって思いっきり笑ってもらえますように」ってお願いしてるねん。
仁智 芸人根性やねえ。
ヤナギブソン 「おさむちゃんです」は、若いころといまとを比べたらパワーは変わってないですか?
おさむ うん。変わってないと思うけど、若いときのほうがもっと優しかった。だけど、いまのほうが……。
よしお 鬼気迫る感じというか。
一同 ははは!(笑)
ヤナギブソン たしかに迫力が宿ってます(笑)。では最後に、仁智さんも2024年の目標を教えていただけますか。
仁智 最近、新作落語を作ってないので、またぼちぼちネタをつくって小さい会場でネタをおろす会をやっていきたいなと思ってる。これ、言わんとやらへんからね。
まさと 最後に……や、あらへんで。ギブソンくんも、やで。2024年の抱負やで。
よしお そうや! ピンでもやってるしな。
ヤナギブソン 僕はピンでしばらく『R-1グランプリ』には出てなかったんですけど、今年から芸歴制限撤廃になったので、久しぶりに新しいネタを作って出ようかなと思ってるんです。でも、師匠の前で一度言いたいです。誰が興味あるねん!
一同 はははは!(笑)