“座長勇退”小籔が語る「新喜劇の20年」と「これから」――功績なんてないけれど、描いていた理想は叶った

吉本新喜劇の座長である小籔千豊が、その座を勇退することを自身のInstagramで1月14日(金)に発表しました。8月の公演をもっての勇退になりますが、今後も引き続き新喜劇の舞台には出演して、自身の企画による特別公演も実施する予定だといいます。2001年に吉本新喜劇に入り、2006年に座長に就任した小籔に、この20年を振り返ってもらい、自身の今後、そして新喜劇への熱い想いなどを語ってもらいました。

出典: FANY マガジン
出典: FANY マガジン

“こそっとハケ”なんで

――まずは勇退を発表して周囲の反応はどうでしたか?

基本的に勇退なんて、こっぱずかしいですよ。勇ましく退くという勇退より、こっそり陰に隠れてハケてく“こそっとハケ”なんで。最初に決まったときは、まわりに言うべきか言わないべきか、どうしようと思ったんです。新喜劇の先輩や漫才師の先輩、お世話になった社員の方とか知り合いとか、一瞬、言わないとアカンかなと思いましたけど、言われた側は「そんなん知らんがな!」ってなるかなと。あんまりハッピーな内容ではないですし、そのことで伝えた人たちが何か変わるわけでもないですし。
でも、言わないわけにはいかんかと思ったときに、(池乃)めだか師匠にお会いして言わせてもらい、それから内場さん夫妻(内場勝則、未知やすえ)や他の方数人にお伝えして。みんな、「えっ? なんでや!?」と神妙な顔で言ってくれました。そんなリアクションしてもらうのが申し訳なくて。今後伝える人にまた同じリアクションをさせ、労いの言葉を言わせることになると思うと申し訳なくて、失礼ながらその後は伝えるのをやめさせてもらいました。
会社からは「記者会見しますか?」とも言われましたが、それももってのほかですし、発表せんでもいいくらいのことですから。記者のみなさんお忙しいなかですし、それもコロナ禍ですしね。よく拍子抜けの記者会見ってあるじゃないですか。そういう「おい! これだけか!」みたいなのになるのも嫌やなと(笑)。記者のみなさんには取材などでお世話になっていたので、会見をやらないのは申し訳なかったのですが……。娘にも息子にも言ってなかったくらいなので、伝えられなかったみなさんも怒らんといて下さい。

出典: FANY マガジン
出典: FANY マガジン

――以前から「今後のためにも座長のポジションは譲るつもり」と公言していましたが、実際、先輩から受け取ったバトンを後輩に渡すことになりますね。

先輩からボケ方、ネタのフリ方、台本の作り方などを教えてもらったり、マネさせてもらったり、そういう意味ではバトンを渡していただききました。ただ、僕は誰かに渡すというよりは、後輩が「バトンを受け取った」と思ってくれていたらいいな、という感じです。
言ってみれば、「座長」っていう市長みたいなものにならせてもらったんじゃないかと考えています。市のことを任されて、市政をどうしていくか、街の魅力やウィークポイントは何かを考えて、どうすればずっとこの街に来たいと思うか、どうしたら盛り上がるかを考える役職に就いてしまって、その任期がただ終わっただけなんです。永久にやるとは思ってなかったですし、10年、長くても15年と思っていたので、ちょうど15年でよかったな、と。もう市政のことを考えなくていいんやと、いまは気持ちが晴れ晴れしてます。

――大きな足跡をのこしたんじゃないでしょうか。

インタビュアー泣かせかもしれないですが、僕の功績なんてないですし、功績があったとしても、ほかの人が語ることであって、おこがましいので、僕からは何もないですね。ただ、僕が下っ端のときに、若手は名古屋から東には名が轟かないと言われていて。実際に、ロケで京都のサービスエリアに行った時はおばちゃんに「観てるで~」と言われ、名古屋でも修学旅行の女の子が寄ってきてくれましたけど、富士山のとこでは誰も寄って来なかったんです。
新喜劇の全国ツアーも、それまでは西日本が中心で、お客さんが少なかったのが、いまは北海道、東北、中越まで回れたり、新喜劇の番組放送も名古屋までだけでなく、東日本も半分以上の地域が放送をしてくれたりするようになりましたから。もちろんテレビ局や会社のおかげでもあるので、僕の手柄ではないですけど、僕の描いていた理想という点では望みが叶ったなと。

出典: FANY マガジン
出典: FANY マガジン

――確かに、新喜劇の全国的な知名度は、ここ数年で飛躍的に広がったと感じます。

東京で吉本新喜劇の番組が流れているのも、いまは当たり前になりましたしね。むかしは、会社の偉い人と居酒屋で呑んだときに、「なんで番組放送のマーケットが(日本の)半分のままで平気、みたいな顔をしてるんですか!? 日本中に新喜劇の名を轟かせたくないんですか!?」と話したら、「(新喜劇の笑いは)箱根の山を乗り越えられへん」と言われたもんなんですよ。
僕は若手漫才師の時に銀座の劇場でもウケたし、東京から関西に嫁いできて新喜劇好きになった人もいるし、民族が違うことはないので、東京でも新喜劇はウケると考えてましたね。最初に東京の俳優座で新喜劇をやらせてもらった時には、その居酒屋でのことを思い出しましたね、「ここまで来ましたよ」と……。それは別に恨み節とかじゃなくて、その偉い人と話し合ったことで、自分の目標を明確にできたので。
あと、後輩たちが全国区のテレビに出演するのも望みでしたけど、彼らがとんねるずさんの「細かすぎて伝わらないモノマネ」で1位や2位になれたり、「アメトーーク!」にも出たりしてるのを観て、本当によかったなと思いましたね。それを続けていってほしいです。僕も「無理なのかな」と思いながらもとにかく続けていったので、ここから後輩でめっちゃおもしろい子らが出てきて、「新喜劇おもしろい!」と多くの人が思ってくれたら嬉しいですね。

「もっとやりたいことを考えるようになった」

出典: FANY マガジン
出典: FANY マガジン

――この流れでお伺いしたいのですが、これから新喜劇にどんな人が入ってきてほしいですか?

まずは、イジメとかもしないエエ子で、自分だけのことを考えるわけでもなくて、公のことを考えられる子ですかね。新喜劇は一子相伝の技みたいなものなので、その技をきっちり学び、そこから新しいものを作る子が出てきてほしいです。いきなり新しいものを作るというのは、僕は違うと思うので。これは、どこの世界でも一緒だと思いますよ。そうやって組織全体のことを考えてくれる子が来ることを、神さまに願っています。

――そんな吉本新喜劇自体は、小籔さんにとって、どのような存在ですか?

言い方は悪いですけど、最初は給料をくれるメシの種でした。でも、最初は給料もそんなにくれないので、ただの勤め先ですね。結婚したてで貧乏だったので、なんせカネくれという感じですよ。でも必死に頑張っていたら、先輩方に可愛がってもらい、高い下駄を履かせてもらい、座長にまでさせてもらって、こりゃアカンなと。小籔を座長にしてよかったなと思ってもらえるようにしたいなって。ルーキー新一さんや、花紀京さんや、岡八朗さんたちという亡くなったベテランさんたちがこっちをチラチラ見てると思うので、その方たちにも認めてもらえるように頑張ってたら、いつの間にかここまで来たという感じですね。「小籔が座長になって最低になった」とは思われないようにしたいので。それはスタッフさんやお客さんに対してもですけど。

出典: FANY マガジン
出典: FANY マガジン

――これから新しく考えていることはありますか?

座長を退くと決まってから、もっとやりたいことを考えるようになりました。いままでは、自分も先輩方に抜擢してもらってきたので、後輩を育てる意味でもちょっとこの子を抜擢しようとか、ウケるかどうかわからないチャレンジもして。これからはそういう縛りなしの、ただただやりたいだけの台本をやっていきたいです。
あとは僕が座長になる前に、内場さんにツッコんでもらっていちばん成長させてもらった当時の台本も8月までにやりたいです。内場さんに抜擢してもらって、いまの僕があると思ってますし、どこかで内場さんに認めてもらいたい……というのもおこがましいのですが、そんな気持ちで座長をやってきたところもあるので。むかしを思い出して感極まったら恥ずかしいので、その台本は最後の週にはせず、6月くらいにしようかなと(笑)。

――Instagramでは「11月あたりにイベントで前からやりたかった台本の新喜劇をやります」と書かれていましたね。

それは、3年くらい前に「ちょっとテレビでは難しいかも?」という内容のものを思いついて。いつかやりたいと考えていて、いま8割くらいは台本ができていますね。いままでの良い台本で、東京公演とかもやりたいです。
これからも、ほかの座員らがどんどん盛り上げて、新喜劇を観たことがない人に観てもらえるようなアクションを起こしていってほしいですね。僕は口出しせずに、期待して見ていく感じです。僕が座長を辞めた瞬間に、新喜劇がさらに跳ねて、有名になっていく後輩もドンドン出て、ベテランさんも急にCMに出たりしても、それをゴールと思ってやってきたので全然いいんです。とにかく、新喜劇が沈むことだけは望んでいないので。みんな身を粉にして動いてくれたら嬉しい。僕は新喜劇というデッカイ船を先輩からもらったので、それを大きくして後輩に渡せていたらいいですね。みなさんのおかげでやってこられた20年ですよ。

出典: FANY マガジン
出典: FANY マガジン

文・鈴木淳史